アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.14

面接試験 ~言いくるめられて~

受験帰りの息子に二次試験の話を聞いて吹き出した。某大学では個人面接ではなく、受験生6名1組で30分間、「18歳選挙権について」のディベート(議論)だった。

だがこのテーマに全員沈黙。賛否を論じたらどうかと試験官が口をはさんだが盛り上がらない。試験官はその後3回介入したが結局30分もたず、10分で終了。「私たちは18歳選挙権が望ましいとは特に思わない」と全員一致の結論となった。何とか審議会の答申みたいである。受験生たちは、選挙権の18歳引き下げが、やがて税負担が激増する自分たちへの国のゴマすりと察知したのかもしれない。

自分も二次試験で面接があった。尊敬する医師を問われ、医学部定番のシュバイツァーと答えたら、待っていましたとばかりに、彼のアフリカでの医療は評価が分かれていると言われた。とっさに、彼はバッハ研究とパイプオルガン奏者としても有名で、ヨーロッパ各地で演奏して金を集めたところが偉い…。

秋田でへき地勤務を始め、異動先のある町役場へ挨拶に顔を出した。そしたら、私を覚えているかねと町長さんがおっしゃる。記憶にない。彼は旧自治省や県庁で働いた人物であった。いわく「君の面接はよく覚えている。シュバイツァー(1875-1965)と来たから、アフリカ医療の功罪について聞こうと思った。ところが君は金集めの話に切り替えちゃった」当時を思い出して二度冷や汗をかいた。

そこで息子に挑戦。「昔の元服は何歳かね」「14歳前後?」「当時一家の主は40で隠居して息子に家督を譲っていた。君の父は還暦です」「それって、僕に対するプレッシャーのつもり?」「ま、今年はどこかに決まってくれればいいが」「勝負は時の運って言うよ、お父さん」オノレ! この手で面接を通ればしめたものだが…。

最後はナマハゲ神社で神頼み

3人の受験生(息子と娘二人)に代わって滑る(阿仁スキー場)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。