アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.15

寛容 ~角界と医療と宗教~

3月春場所、20歳のエジプト人力士が初土俵を踏んだ。しこ名も大砂嵐金太郎。だが相撲取りにつきもののちゃんこ鍋は、豚肉が入っているためイスラム教徒の彼は食えない。1日5回の礼拝も稽古に支障がないよう続けているそうだが、ラマダンという断食月が本場所に重なると面倒らしい。本人は、乗り切る自信はあると語り、大嶽親方も期待していると懐の深さを見せている。

1986年4月、パリからピレネー山脈を越えてスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラまで、いわゆる巡礼の道を辿ったことがある。道中に点在するロマネスク教会の柱頭芸術が目的の一人旅だった。駅に降りて地図を拡げていたら、米国の団体客が教会まで案内してくれと言う。私も初めてだが一緒に歩いた。大伽藍に着くと中の一人が、君はクリスチャンでないから中に入れない、サンキュー、バイバイ…。無礼者! むろん遅れて私も入り、秘かにイエス像へ2礼2拍手1礼。それにしても身勝手な米国人よ。

94年秋、赤坂のトゥールジャルダンで恩師の出版記念パーティがあった。番号付き鴨などを食べた後、ホテルの一室で書店社長や友人、コートジボワールのアビジャン大学教授、助教授と二次会をやった。キリスト教徒の助教授と私たちは酒を飲んだが、イスラム教徒の教授はジュース。助教授は気にするなと言うがちょっと気が引ける。そのうち教授は巻いた敷物をスルスルと拡げた。礼拝の時刻である。しばらく静かにと助教授が目配せした。お祈りが終わると教授は何食わぬ顔で談笑の輪に戻った。

パーティで遠来の異教徒と歓談しておられた恩師は近所の神社の氏子責任総代。社長も地元曹洞宗の檀家総代。あちらの宗教は十字軍のころから政治経済がらみでたまに寛容を忘れるが、医療は元々宗教から派生し、人助けと寛容を血肉化してきた。相撲だって神事の一つで、医療と根っこは同じ。ガンバレ、大砂嵐!

エヴァ(サン・ラザール大聖堂 オータン ロラン美術館)

我が家のエヴァ

私も祭事委員長

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。