アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.19

なぜ山へ登るのか

新田次郎の小説「孤高の人」を読んでいたら山登りがしたくなり、盆休みに高1の末娘と同級生2名を誘った。女子高生が一緒と聞いて私の友人も加わり、秋田市の北にそびえる太平山(1170米)に挑戦した。

かつて登山は貴族や大学生など一部の裕福な人々の趣味で、一般社会人が山に登るようになったのは近年になってからと言われる。こんなムダな暇つぶしはないからであろう。

なぜ山へ登るのか。そこに山があるから、というのは古典的な答えである。新田次郎もこの問題を解いてみたくてこの小説を書いたと述べ、山そのものの中に自分を再発見しようと思って登る、と主人公に語らせている。

山岳信仰の霊峰太平山の頂上には全国三吉神社講の総本宮、奥宮がある。午前8時に登山開始。ごろた石の登山道はきつく、案の定1時間もしないうちに息が上がる。苦しそうな娘に、「後悔している?」というと、短くウンと答える。

10年前からほぼ2年ごとに鳥海山や白神岳、秋田駒ヶ岳など秋田県内の山に家族登山をしてきた。最も付き合いの長い末娘は登り始めるとすぐ、もう嫌だ、帰ろうと駄々をこねるのが常だ。私も疲れてくると、なぜまた登っているのかと内省的になる。4人の子らがいずれ秋田を出る時、秋田の人は酒が強いといわれるだけでは気の毒、せめて県内有数の山に登った実績を積ませてやろうという親心が動機だった。

息も絶え絶えの娘に、「なぜ山へ登るの?」と問うと、「分からない。でもまたお父さんにだまされた」という。なぜ毎度だまされるのか。私の友人が笑う。「2年おきだと、前の苦労を忘れちゃうね」。娘の友人らもうなずいた。

3時間後の11時、やっと狭い頂上に到着。天候に恵まれ360度全方位の眺望は、引き始めた汗と共に爽快である。奥宮に常駐する宮司のお祓いを受ける登山客もいた。弁当を前に自問する。なぜ山へ登るのか。父娘そろって「懲りないから」という答えが幻聴のように返ってきた。

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。