アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.38

介護と医療の現場 ~事故とどう向き合うか~

91歳の母親を亡くしたが、老人施設の対応に腹が立って眠れないという初老の男性が受診した。母親は5年前から認知症のため施設に入っていた。最近、頻尿のためか落ち着きがなく、施設ではベッドに転落防止柵を使っていた。柵で囲うのは母の尊厳を損なう、はずしてくれと彼は主張していた。そんなやり取りの最中に転落し、大腿骨骨折で入院した。病院では、超高齢の認知症と衰弱から手術には消極的で、そのうち肺炎を併発して死亡した。

施設も病院も許せない、訴えたいと大粒の涙を流す男性は、自分の症状よりこの件で私に意見を求める。彼の言い分を鵜呑みにはできないし、施設と病院の肩を持つこともできない。困った顔も出来ないし、分かったふりも出来ない。逃げ場もない。ないない尽くし…。

そんな折、会津出身の医師と飲む機会があった。150年前に会津は朝敵の汚名を着せられ、薩長に人も土地も蹂躙され、死んだ藩士の埋葬さえ禁じられ、不毛の下北半島へ追放され多くが餓死した、この恨みは今なお続くという。話のレベルは違うが、母親が虐待されたと思い込み、親を守れなかった悔いも残る患者の気持ちに、関係者は親切に対応すべきとアドバイスしてくれた。

1週間後の外来。男性の不眠や抑うつ気分はかなり改善したが、施設と病院への非難は変わらず、私に同意を求める。私も前回同様、拝聴するにとどめた。だが3回目の受診で少し様子が変わった。もしベッドの柵を外せば母親はもっと早く骨折していたかもしれない、手術をすれば却って寿命を縮めていたかもしれない、事故と死亡の因果関係も絶対とは言えない、骨折も肺炎もお迎えだったかと思えるようになったという。相談した弁護士の影響もあるようだ。

介護も医療も、訴訟では結果責任より努力責任が重視される。このケースではその後の関係者の対応がよく、患者も冷静になれた。だが時々、そろそろお迎えかといった老親を総合病院に入院させたいという家族もいて、介護現場の苦悩は尽きない。

男鹿半島なまはげ柴灯(せど)祭り

冬の八郎湖(八郎潟干拓の残存湖)

八郎湖畔の枯ススキ

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。