アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.39

胃透視検査 ~被爆問題のややこしさ~

昨年、反原発運動をしているという人から電話があった。福島の被曝問題について話を聞きたい、医師として運動にも参加もしてほしいという。

自治医大の学生時代、胃バリウム透視検査は遠隔操作で学んだ。ところが研修医となった昭和54年当時、秋田大学消化器科の医師たちは防護服を着てレントゲン室に入り、患者の腹を直接手で触れてやっていた。強面の講師は、指の爪が放射線で褐色になって1人前とおっしゃる。東京の大学を卒業してきた同期の女医は仰天し、皮膚科に研修先を変えてしまった。私は県職員なので逃げられない。

やがて地方の病院に赴任した。ここなら遠隔OKだろうと思ったが、甘かった。遠隔操作台に向かった初日に科長は大学の講師と同じことを言う。やむなく防護服を着た。

そのあとのことである。仕事を終えてレントゲン室を出たら、「先生、お話があります」と放射線技師長と技師4人が立っていた。いわく「これまでも遠隔操作でやろうとした先生がおりましたが、科長の反対で全員あきらめました。私たちは先生を支持します。初心を貫いて下さい」。被爆に関しては技師たちの方が問題意識が高かった。

こうまで言われて断念したのでは男がすたる。翌日から私は遠隔にした。1週間後、技師たちがニヤニヤしている。「先生の抵抗、大成功。科長も遠隔に切り替えましたよ」

東大卒の海軍将校だったある元市長さんは、広島市内であのキノコ雲をまる一日眺めていたというが、85歳の今も合唱団で歌っておられる。爪の講師も科長も私も、さらに胃透視草創期に著しく被爆した今80代の医師らも結構長生きしている。

「原発問題は人類の科学史から見れば新エネルギーの開発で解決する、あわてるなという吉本隆明のような哲学者もいるし、子供の放射能検出率は低いのに風評被害率の方が高いという科学者もいて、ややこしいですね」と言ったら、医師がその程度の認識でよいのかと電話の主は怒り出した。面目ないが、事実だから仕方がない。

遠隔操作に挑戦した湖東病院も間もなく新装オープン

秋田名物、頭の良くなる薬

堂々めぐりのカモと同じ原発問題

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。