アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.41

小さな命を大きな演奏で包む ~フジコ・ヘミング・ピアノ演奏会~

嵐がどこの岸辺に私を吹き寄せても、私はそこの客になる…。去る5月23日、東京すみだトリフォニーホールでフジコ・ヘミングのピアノを聴きながらふと、古代ローマ時代の詩人ホラティウスの一節を思い出した。スウェーデン人の画家を父に、日本人のピアニストを母にベルリンで生まれたフジコは、5才から日本に住むようになった。しかし、ドイツに留学する青年期まで無国籍だったという。日本では「女三界に住む処なし」というが、フジコ自身、「この地球上で私の居場所はどこにもない」と述べているそうだ。

昨年12月にパリを訪れた私の長女は、私が学生時代にパリでご厄介になった画家トモコ・オベールに親子2代にわたって?お世話になった。市内を一緒に散歩していた折、街角のカフェで一服しているフジコに娘が気付いた。許可を得て同席した娘はリストやショパンの話をたっぷり伺い、「奇跡が起こった!」と興奮した様子でメールを寄こした。私も仰天した。その縁でトモコはビオスHP「パリ通信」でフジコを取材することになり、ビオス社長から来日公演の報が私に届き、在京の長女と次女を引き連れ、出かけたという次第である。

1932年生まれのマエストロは、おいらん風の衣装をまとい、悠揚迫らざる足取りでステージに現れた。「風邪薬を飲み過ぎてふらふらです」と挨拶の声はかすれていたが、彼女のCDは全部持っているというある知人は、「ヨーロッパ文化を山紫水明で表現する演奏」とうまいことを言っていた。

最後にヒゲおじさん(弟さん?)が立ち、「人生は1回きり。明日はどうなっているか分からないんだ」と叫んでアンコールを促し、満座の客から大拍手。バッハのアリアが静かに終わると、オ・モ・テ・ナ・シの滝川クリステルさんも登壇し、ペットたちの小さな命を救うために支援をと訴えた。「ピアノは猫たちを食わせるための道具」と人を食ったようなフジコの言葉もあるが、寄る辺のない存在ともいえるペットたちを大きく包み込むような演奏は、獣医学部を目指す3女にもいい土産話となった。

イングリット・フジコ・ヘミング ジャパンコンサート ポスター

パリのカフェで(右からフジコ、トモコ、娘)

会場のヒゲおじさん

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。