「なにしろ医者が人間の中身を全く知らずにいたんだからね。それが、刑死した罪人を腑分け(解剖)してみたらターヘルの西洋人と同じだったとさ」
秋田県仙北市のわらび座劇場で上演中のミュージカル「直武を育てた男・源内」(4月~来年1月)の主役、怪しげなエレキテル男、平賀源内の科白である。形式より実を取る老中・田沼意次の開放的な一時期、解剖も許可され、現場を見た杉田玄白、前野良沢らは、ドイツ人クルムスが1722年に発刊したターヘル(図)・アナトミア(解剖)の挿絵の正確さに驚き、蘭和辞書もない時代に無謀ともいえる翻訳に着手する。
そのころ秋田藩に鉱山の仕事で招かれた源内は角館の五井家で小田野直武の画才を見出し、1773年に江戸へ呼ぶ。玄白らの困難を極めた翻訳も終盤で、直武の挿絵模写により日本初の解剖書「解体新書」は原著発刊から50年後に完成した。
やがて、西洋画に夢中だった直武に秋田へ戻れと藩命が届く。源内はいう。「秋田を蘭画の総本山にせよ。あの北国で西洋文化が栄えるなんてオツじゃないか」。帰った直武は藩主佐竹曙山の絵の指南役となり、北家(角館)の佐竹義躬(直属の殿)らと秋田蘭画を興す。
日本の医療史を詳細に展示した「医は仁術展」(国立科学博物館、3月~6月)では解体新書の説明に直武の名がなかった。私の学生時代の教科書「レジェールの外科診断学」は、外傷・疾患と処置を説明する挿絵が人気だった。解体新書も文章より絵が魅力だったはず。なのに直武の名がない。
だが身分制度が厳しい時代。ミュージカルでは親友だった玄白も実際は下級武士の直武を低く見ていたフシがあり、殿の道楽相手が身分の低い直武では藩の重役らも苦々しかったに違いない。解体新書や秋田蘭画に寄与しながら32歳で謎の死を遂げた直武。その不遇は「医は仁術展」にまで連なったか。
パリ大学でレジェール教授門下だった森岡恭彦先生(昭和天皇の執刀医)と角館松庵寺に酒2升箱サイズの直武の墓を訪ねたことがある。その時の先生のつぶやきが忘れられない。「いい仕事したのに、ちっこい墓だね。かわいそうに」
わらび座のポスター
五井家(角館の古い商家)
解体新書(角館伝承館蔵)
直武の墓(左)絶学源真
直武の墓石を撮影する恩師之図
わらび座 杉田玄白と筆者