アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.45

大曲の花火 ~この世をば、どりゃおいとまに~

秋田県の人口は平成元年の123万人が同25年105万人と激減した。25年後には若い秋田美人も減って市町村のほとんどが消滅、空き家が増え、田を耕す人も消え、「空き田県」になるらしい。

ところが、秋田が誇る大曲の花火の観客数だけは増え続けている。私が同市の病院に赴任した平成元年の30数万人が今年は73万人。県内外から訪れたこれらの人々を収容する雄物川河川敷の面積もすごいが、開催される8月第4土曜のころ秋田は真夏より残暑が厳しく、客の誘導や不慮の事故、急病への救急対応も大変で、花火師共々裏方たちも涙ぐましい努力を重ねてきた。

大曲の花火は「競技会」なので全国から招聘された著名業者が自ら打ち上げる。フィギュアスケートの規定演技にあたる「10号割物」、音楽を背景に2分半の自由演技「創造花火」の2本立てで、全国にテレビ中継もされる。

目玉は午後8時45分開始の「大会提供花火」。打ち上げ場は幅1千㍍にも及び、間近の桟敷からだと視界に収まらない。主催者側は毎年これでもかといった趣向を凝らすが、今年は7分間にアレンジしたラヴェルのボレロが高揚してゆく中、光のシャワーと小気味よい轟音が夜空を彩り、フィナーレには客席の興奮も絶頂に達した。終了するや悲鳴に似た大歓声と拍手が会場に拡がる。

「この世をば、どりゃおいとまに、線香の煙とともに灰左様なら」と辞世の句を残した東海道中膝栗毛の十返舎一九。彼は死に臨み門弟らに言い遺した。「湯灌(ゆかん)はするな、着物も替えるな、このまま棺桶に入れて必ず火葬せよ」。遺言を守って火をつけたらドッカーン。着物の下に線香花火を大量に仕込んであったのだ。

「人生は花火の如しか」と芥川龍之介は書いたが、かつては鉱山や石油、杉、米、魚、秋田美人と酒にも恵まれ、苦労が薄かったわが郷土も人口が減って「花火とともにハイ左様なら空き田県」では情けない。大会提供花火に負けない元気な対策を立ててもらわないと、私ら医者も仕事が…。

昼花火大会は大曲だけ

パンフレット

増え始める観客席

大会提供花火

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。