アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.5

男鹿半島のマリア像 ~83年日本海中部地震の記憶~

「地震、怖い、怖い」「大丈夫、大丈夫」なまはげ役の観光案内人H氏はスイス人夫妻をなだめた。その直後、高さ4メートルの津波が3人を呑みこんだ。海に引きずり込まれ、もがいても、もがいても沖へさらわれていく。奇跡的に助かった彼がどうにか浜に辿り着くと、ずぶ濡れの夫が立ちすくんでいた。「妻がいない!」

1983年5月26日正午、日本での仕事を終えてチューリッヒへ帰る前の記念にと、男鹿半島を訪れていた夫妻の妻、マグダレーナ・ブランデンベルガーさんは、男鹿の海で38年の生涯を閉じた。真夏を思わせる強い日差しが湾を照りつけていた。

地震があっても日本海に津波は来ない、そうH氏は子供の頃から教えられて育った。「悔やんでも、悔やみきれない。油断だった」津波の中に消えて行ったあなたを救えなかった…その一念で募金活動を開始し、3年後、日本海中部地震の犠牲となった人々を追悼する「マリア像」を男鹿水族館GAOの玄関前に建立した。

「別れ際に交わした握手の手のぬくもり。死ぬまで忘れられんでしょう。津波の知識がなかったばかりに…」

マリア像は、背後の巨石からの落石が激しく、昨年、駐車場に引っ越した。そして今、何事もなかったかのように微笑をたたえて静かに佇んでいる。

マグダレーナさんが被災したと同時刻、水族館南の加茂青砂海岸を、遠足で訪れていた北秋田市立合川南小学校の生徒43名と教師も津波に飲み込まれていた。13名の児童が犠牲となった。

2001年に廃校となった加茂青砂小学校の敷地近くに大きな慰霊碑が立つ。訪れた日の夕暮、古い木造校舎正門の桜は満開を迎え、玄関脇に立つ二宮尊徳の石像が柔らかく光っていた。

2008年4月のマリア像

2011年4月のマリア像

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。