アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.55

パリの躾 ~生活習慣と睡眠覚醒リズム~

目の前に2枚の写真がある。1枚は32年前に日光東照宮の五重塔前で撮影されたもので、アンリ・オベールとおなかの大きい夫人の画家トモコ、私などが写っている。アンリは若くてハンサムだ。その3年後にパリのオベール家で撮影された1枚では、トモコのおなかから出てきたミシェルが私に抱っこされている。今年6月に東京鮫洲で開かれたトモコの個展で再会したこの坊やは、なんと32歳の青年になっていた。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ、われらの恋が流れる。私は思い出す。悩みのあとには楽しみがくると。日が暮れて、鐘が鳴り、月日は流れ、私は残る…34歳の時にミシェルを抱っこした私にも30年の月日は流れ、慙愧とシミが残る…か。

アポリネールの詩を口ずさみながら感傷に耽っていて、ふと思い出したパリでの一幕。幼いミシェルと遊んでいたら夜8時になった。さあ、もうおしまいよとママンが一言発するや一粒種は小部屋に連れて行かれ、ドアを閉められてしまった。泣けど叫べど父親も知らん顔。むごい。欧米ではこうした躾をすると話には聞いていたが、こんな幼児をまさか本気で閉じ込めるとは…。

わが国では室内側から鍵をかけられる子供部屋が多い。子供は何か都合が悪くなると自ら籠城できる。テレビやパソコンがあれば言うことはない。それが時には引きこもりの下地となる。だがあちらでは子供にそんな自由はないと見た。

朝になっても起床できず、学校へ行けない生徒が時々受診する。中学時代も時々学校を休み、どうにか高校には入ったが、出席時数不足のため進級が危うくなったある高校生は、小学校時代から夜0時前後に寝ていた。親も気に留めていなかった。

2000年ごろ、日本の幼児の就寝時刻が平均午後10時過ぎという調査結果が公表され、欧米の医師たちが問題視した。日本の子供たちの将来を危惧したのである。日本の医師たちの声は小さかったように思う。幼いころ夜8時に部屋に閉じ込められていたか、いなかったかの違いだったかもしれない。

32年前の日光東照宮五重塔前にて

29年前のパリにて

今年6月東京にて

男鹿半島に沈む夕日

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。