本物の芸術を秋田の子供たちに―。秋田市のにぎわい交流館で上演中のわらび座(本拠地は秋田県旧田沢湖町)ミュージカル「藤田と政吉」に何度も出てくるセリフである。戦前の秋田の大地主で、途方もない金持ちだった平野政吉は、東京の絵画展で藤田嗣治と出会う。芸術に造詣が深かった彼は、パリではすでに著名な画家だったが、日本では無名に近かった藤田の才能に惚れ、2人の交流が始まった。
やがて政吉は秋田に藤田を招き、秋田の四季を壁画にしてほしい、展示のために美術館も建てると制作を依頼する。1937年、藤田は縦3.65米、高さ20.5米の「秋田の四季(行事)」を174時間で仕上げた。感動した政吉は藤田と約束した「天井から自然の光が入る礼拝堂のような美術館」を設計する。だが日米開戦で延期。そして1967年5月5日子供の日、「秋田の子供たちに」という約束を守り平野美術館は開館した。
話は変わる。札幌市郊外のモエレ沼公園は、ゴミ捨て場だった広大な土地に建築家イサム・ノグチが1988年に設計した。ところが着工直前に彼は急逝してしまう。困った関係者らが相談した建築家の安藤忠雄氏は、「プランを立てたイサムがいなくなったのだからやめるのは当然」と中止を勧告。だが、「目的は子供…子供たちで賑わっているのが公園本来の姿」というイサムの考えを札幌市は守り、2005年のオープンにこぎつけた。ケガをしないよう水遊び場の砂に古いサンゴを用いるなどきめ細かい配慮は亡きイサムとの約束だった。(イサム・ノグチとモエレ沼公園 学芸出版社2013年)
「秋田の行事」が2年前に引っ越した先の新県立美術館は、自然採光、絵と建物が一体となった礼拝堂のような空間、という藤田と政吉の約束からやや遠い。「目的は子供」という点からも新美術館周辺の広場の殺伐さは、結果的に約束を反故にした。モエレ計画に反対した人の設計に、「話がちがう」と壁画はお堀の向こうを見やりながらたぶん怒っている。美術館の外壁に「秋田の行事」の巨大レプリカを据えて子供たちを驚かしてやるのが、せめてもの罪滅ぼしかもしれない。
平野美術館にあったこころの「秋田の行事」
平野美術館(旧県立美術館)今後の用途を巡って混迷中
平野政吉の胸像
藤田嗣治の胸像
安藤忠雄氏設計の新秋田県立美術館