アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.63

薄れゆく記憶 ~3・11から5年~

5年前の3月11日午後3時半前、診察室が大きく揺れた。怯える患者に、「ここは神戸の地震を経験した建築家の設計だから大丈夫」と声をかけたが、電気は消え余震も続き尋常ではない。職員は帰し、妻も車で30分の秋田駅へ高校を卒業したばかりの長男と高2の次女を迎えに行った。私は中学校から帰った末娘と2人でローソクやキャンプ用ガスコンロを出して夜に備えた。妻から電話で、道路は信号が消えて大渋滞、子供たちの友人も乗せたのでそれぞれの家に送って行く…。

暗い居間でローソクに火をつけ、ラジオに耳を傾けていると、「ローソクによる火災に注意を」と繰り返す。「お父さん…」と娘は小皿のローソクを指さす。私は水を張った丼に換えた。東京の長女から「大学の研究室の本が全部床に落ちた。ケガはない。外は冷たい雨。帰れない友人10名を部屋に泊める」とメールが来た。ワンルームマンションに10名?

翌日正午前にテレビが復旧し、津波の映像に圧倒された。大学同期のネットでは、釜石で病院長をしている仲間が消息不明、同窓会が救援ヘリを飛ばすなどの情報が飛び交う。医師会からも続々とファックス。現地では生存者の治療より死亡確認の検視医を必要としている、薬剤供給が危ういので長期処方を控えるように…。やがて、「夜中に何かあると怖いから眠剤をやめた」「身体が揺れる」「訳もなく涙が出る」「テレビの執拗な映像で具合が悪くなった」という患者が増える。

あれから5年。友人10名を泊めた長女は医院の事務職に、どさくさに紛れ大学入試の合格を辞退し勝手に東京の予備校に手続きした長男は大学5年生に、高2だった次女は大学を卒業、ローソク娘は獣医大2年生になった。あのとき釜石へ行こうとした私は、「還暦の腰痛持ちでは足手まといになるだけ。どうしてもというならお供する」と後輩らに諌められ、町内会、PTA、本コラムも駆け出しで多忙だったはずだが、今やメモを見ないとほとんど思い出せない。5年後はもっと曖昧になり、多くは忘却の海に沈む。あの日を忘れない…赤面するしかない自分の過去を顧みると、実に困難な標語である。

震災翌日の新聞

男鹿半島の寒風山より潟上市秋田市方面を望む

白神山地(寒風山より)

獣医大娘とジオン君

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。