5年前の3月11日午後3時半前、診察室が大きく揺れた。怯える患者に、「ここは神戸の地震を経験した建築家の設計だから大丈夫」と声をかけたが、電気は消え余震も続き尋常ではない。職員は帰し、妻も車で30分の秋田駅へ高校を卒業したばかりの長男と高2の次女を迎えに行った。私は中学校から帰った末娘と2人でローソクやキャンプ用ガスコンロを出して夜に備えた。妻から電話で、道路は信号が消えて大渋滞、子供たちの友人も乗せたのでそれぞれの家に送って行く…。
暗い居間でローソクに火をつけ、ラジオに耳を傾けていると、「ローソクによる火災に注意を」と繰り返す。「お父さん…」と娘は小皿のローソクを指さす。私は水を張った丼に換えた。東京の長女から「大学の研究室の本が全部床に落ちた。ケガはない。外は冷たい雨。帰れない友人10名を部屋に泊める」とメールが来た。ワンルームマンションに10名?
翌日正午前にテレビが復旧し、津波の映像に圧倒された。大学同期のネットでは、釜石で病院長をしている仲間が消息不明、同窓会が救援ヘリを飛ばすなどの情報が飛び交う。医師会からも続々とファックス。現地では生存者の治療より死亡確認の検視医を必要としている、薬剤供給が危ういので長期処方を控えるように…。やがて、「夜中に何かあると怖いから眠剤をやめた」「身体が揺れる」「訳もなく涙が出る」「テレビの執拗な映像で具合が悪くなった」という患者が増える。
あれから5年。友人10名を泊めた長女は医院の事務職に、どさくさに紛れ大学入試の合格を辞退し勝手に東京の予備校に手続きした長男は大学5年生に、高2だった次女は大学を卒業、ローソク娘は獣医大2年生になった。あのとき釜石へ行こうとした私は、「還暦の腰痛持ちでは足手まといになるだけ。どうしてもというならお供する」と後輩らに諌められ、町内会、PTA、本コラムも駆け出しで多忙だったはずだが、今やメモを見ないとほとんど思い出せない。5年後はもっと曖昧になり、多くは忘却の海に沈む。あの日を忘れない…赤面するしかない自分の過去を顧みると、実に困難な標語である。
震災翌日の新聞
男鹿半島の寒風山より潟上市秋田市方面を望む
白神山地(寒風山より)
獣医大娘とジオン君