アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.69

形あるモノはいつか壊れる ~不都合な真実?~

とある斎場で2人の男が紫煙をくゆらせていた。「先輩、そろそろ禁煙しなよ」「お前さんこそウイスキーはそろそろ卒業したらどうだ?」-恐れながら、と私は一方に年齢を尋ねた。「81だ」といい、もう一方は「2歳上」と答えた。火葬が終わると若い方は8人乗りワンボックスカーで颯爽と立ち去った。これから孫夫婦と曾孫ら6名を連れて海へ行くという。

詩人のサミュエル・ウルマンに「理想を失うとき人は老い始める」という言葉がある。理想は遊びと言い換えできそうだが、先日の新聞に高齢者とは65歳以上と考える人が20%、70歳以上が41%とあり、「老い始め」の年齢は後退している。

8月8日に天皇のお言葉がテレビで放映された。体調が思わしくない、国民を思い国民のために祈るお勤めに自信が持てないといった理由のようだが、平成元年に55才で即位されたとき大学同期に方が、「自分は間もなく定年で、余生はのんびりと考えている時期に、天皇はこれからだから大変だと当時思った」と述べていた。あれから28年、陛下の潔いご判断もそうは問屋が卸さない雰囲気である。

全国各地のインフラは建設から半世紀を過ぎて老朽化が進み、笹子トンネル事故のように道路や橋は遠からず崩壊し、人が死に、行政担当者は刑事被告人になるだろう。同じように、増え続ける高齢者も続々と亡くなり、斎場の確保もますます難しくなる。一方、在宅死の半分は看取りではなく警察等による検案で、今後、孤独死、事故死といった形で最期を迎える人が急増するとも言われ、インフラの老朽化も高齢者の最期も、私たちにとって不都合な真実が現実化しつつある。

斎場で出合った2人とは翌日の葬儀でも一緒になった。故人は75才だった。「あいつは子供のころ洟垂らしの泣き虫だったが、秀才だった。まさか俺たちより先に死ぬとはね」と陛下と同齢の男が酒を飲みながら煙草を吹かす。「古いトンネルが壊れる前にあっちへいけるかな」と若い方もウイスキーと煙草を飲んでいた。形あるモノはいつか壊れる。人は理想を失わないこともできるが、インフラの方は老いて朽ちるだけか。

秋田県立小泉潟公園「水心苑」のモネの池

形あるモノは…右は骨折、左は手術後

手術から2日後の講演

10月の水心苑

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。