アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.70

創造的過疎 ~同じ阿呆なら…

徳島県神山町は地方創生の先取り、日本一元気な田舎町として知られている。IT関連企業のサテライトオフィスで働く若者が川に足を浸し、パソコンでネット会議をする姿がテレビで放映され話題になった。私たち八郎潟異業種交流会は4年前「グリーバレー・神山プロジェクト」代表の大南信也氏を秋田に招きお話を伺った。その後、地方への移住が若者の関心を呼び、都内にふるさと回帰センターが設けられるまでになっている。この10月3連休、神山を一目見ようと私たちは徳島へ向かった。

阿波踊り空港からレンタカーで徳島市内に入ると医療機関の看板がやたら目につく。医師過剰が問題化していると後で聞いた。四国4県は総人口380万人に4医学部、千葉県は620万人に1つだから頷ける。V字型山間を鮎喰(あくい)川沿いに遡ること1時間、車は大南氏が待つに神山に着いた。

空き店舗の増加に悩む神山では10年程前、空き家利用と町外からの移住者をネットで募集した。他と違ったのは、住民が話し合い、地元が必要とする人材を選んだことだ。第1号は東京から応募した子連れの若いパン職人夫婦。「開店したら週2回はパンを食って必ず成功させよう」と住民らは古い竈を据えるなど古民家をリフォームして待ち構える。パン屋は繁盛した。焼きたての味に客が急増したのである。ネット環境を整え改造家屋にIT企業のオフィスも迎えた。海外からのアーチストらが住み込んで制作するなど相互の交流が盛んになる。日本一の生産量を誇るスダチみたいに街は賑わい始めた。

案内されて街を歩く。古民家だったオフィスやレストラン、元長屋のカフェ、国の補助で建てたバンガロー風の宿、森の中の歯科医院など、都会からやってきた若者らがコンパクトに住んでいた。彼ら「よそ者」に刺激され最初に変わったのは町役場の若手職員だったという。フランスでワインを学び、神山にやってきてレストランを開いた女性店主は、「近所の爺さんが毎晩ワインを飲みに来るようになった。働いてためた金は今まで都会に住む子や孫にあげていたが、この1杯が目の前の若者たちの支援になるっていうの」と笑顔を見せた。店は週3日休みで、店員らは次のステップに向け休日は各々研鑽を積んでいる。他の移住者らも同様で、国が言う「働き方改革」まで先取りしているのだ。

いくつか気付いた。田舎暮らしながら神山では移住者が収入の確かな職を持っている。コンパクトな地区に住み交流が盛ん。その影響で地元住民が変化してきたことなど。数年前、ILO国際労働機関の委員長が日本の長時間労働を非人間的だと批判したが、神山にはゆとりある働き方と人間らしい暮らしがあるように見えた。「金はこの若者たちに」と老人らが言うように、この街の創生は「循環」が鍵を握っている。おまけに神山はグリーンバレーと自称するくらい景観も美しい。

最後の晩、例のレストランで反省会をやった。「人生を学ぶもっきり屋」という川柳もあるが、ご近所どうしの溜まり場、物と金を地域で回す工夫だねと大南氏を囲んで話していたら、秋田からの客人のために、と突如、店主や常連客らが笛、鉦、太鼓で「踊る阿呆に見る阿呆」を賑々しく始めてくれた。お遍路さんへの「お接待」級である。創造的過疎とはこのことか…。座して秋田の崩壊を待つより、自分たちがまず踊らないといかんなー。

鮎喰川でネット会議中(我々のヤラセ写真)

改造古民家オフィス

ウイーク神山(改造古民家の宿の食堂)

ウイーク神山のすぐ下に鮎喰川

カフェ・オニヴァにて阿波踊り

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。