アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.83

長崎 ~軍艦島からカズオ・イシグロへ~

自治医科大学の第1期入学生を待っていたのは建学理念の支柱と謳われた『全寮制』である。寮はラウンジと呼ばれる広場に8つのドアが面する8個室を1単位とし、学籍番号のア行から順に配置されていた。私たちカ行サ行の8名は寮生活や実習で行動を共にし、朝寝坊だった私は両隣の兵庫と愛媛の佐々木から、「朝飯に行こうよ」とか「今日は保健所実習だからもう起きろ!」といった按配に面倒を見てもらった。こんな生活を6年間も続ければ兄弟みたいになってくる。

そのカ行サ行など9名が11月3日、長崎市に集まった。幹事は地元の佐々野君。初めての長崎をグーグルマップで調べたら宿の「にっしょうかん別邸・紅葉亭」は長崎駅から960㍍徒歩11分とある。長崎空港から駅に着くと「兄弟たち」が待っていた。歩く、というとみな爆笑し「1時間はかかる」「グーグルは宇宙から見た直線距離や。あの坂みてみ」という方向を眺めるとまるで断崖である。グーグルの落とし穴だったか。

ホテルのバスに乗った。佐々野君は、長崎は港を挟んでV字型に山が迫る地形のため民家の80%以上は斜面に建ち、建設コストも高いが、お陰でどこから見ても夜景が素晴らしいという。確かにひと風呂浴びて宴会が始まると雲ひとつない夜空に街並みは満艦飾だ。卒後40年近いので現役入学組64才、最高齢69才で全員まだ現役。話題も仕事の近況が中心となる。

翌朝、長崎港から軍艦島(端島)へ向かう船に乗った。天気晴朗なれど波高し。20キロを30分間航行し船はどうにか接岸した。84年間に及んだ石炭採掘は石油に押され1974年に閉鎖、全住民が島を去った。無人の建造物は潮風で崩壊が進み、幼稚園・小中学校・体育館が同居していた7階建ては上から崩壊し現在4階。イコモスの世界遺産登録に中韓からケチのついた軍艦島だが、「お客様方が次に訪れたら激変していますね」と案内人が説明していた。

軍艦島には多い時で5千人からの人が住み、面積は埋立てにより3倍の6㌶に拡がった。TV、洗濯機、冷蔵庫が「3種の神器」と呼ばれた当時、普及率は本土3割に対し10割の生活水準を誇り、映画館、飲み屋、パチンコ店など娯楽施設はむろん運動会も行われていた。仕事はきつく、地下1㌔まで掘り進んだ炭坑は近隣の島や本土地下まで横坑が延び、真っ黒になった作業員は地上に戻ると最初に海水で身を洗い、次に温めた海水、最後に真水の風呂に入ってやっと着替えたという。

水は船で運んでいた。人口増に伴い海底に水道パイプラインが敷設され、水を蓄えるタンクが島の頂上に残っている。このパイプライン技術は中東など海外へ輸出された。また、軍艦島で人が亡くなると隣の中ノ島へ運んで火葬、埋葬し、或いは故郷へお骨が返されたという。軍艦島には寺も神社もあったが、墓地まで作る余裕はなかったようだ。

崎出身のノーベル賞作家カズオ・イシグロの『遠い山並みの光』は舞台が長崎市と稲佐山。佐々野君はイシグロが通っていた桜ヶ丘幼稚園の園医をしていた。5年前に閉鎖されなかったら入園にプレミアムがついたか。この小説に平和公園の白い巨像を「交通整理をしている警官の姿」と表現するくだりがある。帰る日の朝に訪れるとお巡りさんの右手人差し指に1羽のカラスが止まって動かない。公園は祈りに専念できるシンプルな設計だそうで、カラスに気を奪われてはいけないのだ。彼の『日の名残り』『充たされざる者』などはフランツ・カフカの『城』を連想させ、カズオならぬカオス・イシグロの果てしない不条理の世界に迷い込んだような長崎の旅であった。

カ行サ行+α(紅葉亭)

崩壊が進む軍艦島

グラバー邸の麒麟(麒麟ビールのラベルの原画)

孔子廟の麒(上手)

「長崎には日本海と太平洋と東シナ海から海の
幸が入ってきます」と龍さん

平和の像(長崎平和公園)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。