アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.84

マタギの里から ~偏屈男たちの熊騒動~

狩猟で生計を立てるマタギがいたか、まだいる秋田県内の地域は、鳥海山の麓や宮城との県境など4、5カ所で、中でも阿仁マタギが最も有名かもしれない。その阿仁町(現・北秋田市)の病院で働いていた昭和時代の末、私は各集落の寝たきり老人らを定期的に往診していた。その中に挨拶してもろくに返事もしない、甚だ頑固な爺さんがいた。やむなくいつも型どおりの診察をし、おだいじにと言ってその家を辞去していた。

ある日の往診前、婦長が「あの人はテレビ局の依頼で雪男を探しにヒマラヤへ行った人ですよ」と教えてくれた。噂は私も耳にしていたが、まさか彼が当人とは思いもよらなかった。そこで、その日の診察中に「ヒマラヤの、あの有名人だったのですね」と語りかけたら、いつもは閉じたままの目が突然、カッと見開いた。脳卒中による言語障害のため会話は難しかったが、初めて布団から起き上がってニヤっと笑った。家人によれば、猟銃の腕前はマタギ仲間でも群を抜いていたという。

そんなマタギの里に昨年やたら熊が出没した。特にリンゴ農家が集中する集落には連日現れた。リンゴの収穫期は熊にとっても冬眠前に食い溜めする大事な季節である。昔から少々の被害はあっても住民は半ばあきらめ、妥協していたが、昨年は尖閣諸島沖に現れる中国船並みの数と頻度であった。

いかに阿仁とはいえ今や狩猟だけで食っていける時代ではない。本物のマタギは減っている。だが、この集落にはただ一人、猟銃免許を持つ中年のハンターがいた。あまり評判は芳しくない。マタギは、集団で熊を追い詰める「巻き狩り」で奪った命を敬い、肉は平等に仲間と分け合う、あるいは近所にお裾分けする習わしなのだが、彼は独り占めするからである。熊の胆はむろん、肉も高く売れる。ケチな奴だと嫌われる。

その隣に84才の爺さんが住んでいた。この人も偏屈なところがあって、他のリンゴ農家は熊の侵入を防ぐため畑の周囲に電気柵を張り巡らすのだが、彼だけは何か信念があるのか設置しない。当然、熊はその畑を好んで現れる。頭に来た爺さん、ご法度のトラバサミを仕掛けた。

ある夜の11時ころ、畑からか細い悲痛な鳴き声が集落に響き渡った。小熊が罠に引っかかったらしい。翌早朝、危ないからと制止する妻を振り切ってこの84歳は斧を片手に一人で畑へ向かった。隣家のハンターに頼むと熊肉を独占される。

予想通り小熊がトラバサミに足をとられ動けないでいた。爺さんは夢中で2、3発、斧を振り下ろした。と、そこへ、当然のことながら母熊が現れる。家の窓から一部始終を見ていた妻は隣のハンターに連絡した。彼は即座に猟銃を片手に現場へ急行し2頭を撃ち殺した。どうも出番を待っていたらしい。

爺さんは口元から喉までを母熊の手で引き裂かれていた。一命は取り留めたものの、今なお入院中で、食事はおろか話すこともできない。ハンターが母子2頭の熊をどう処分したか、住民たちは誰も知らない。

事件は報道され、違法のトラバサミを使ったとして爺さんは動物愛護団体から猛烈な非難攻勢にさらされた。偏屈なお隣同士が巻き起こした事件ではあるが、この集落では例年せいぜい0か1頭のところ、昨年は1年間で13頭が射殺されたくらい熊が激増したのである。同じ熊でも上野のパンダ周辺は華やかだが、熊が冬眠中で今は静かなマタギの里の人々は、雪が消える来春はどうなることかと怯えながら暮らしているという。以上は、この2軒の近所の人から聞いた話である。

雪に埋もれた現場の畑

ツキノワグマの剝製

秋田市内の「フクロウカフェ」

冬花火(大曲角間川)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。