アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.86

高齢者たちの反乱 ~都市の空気は自由にする~

3年前、隣町に住んでいた80才の爺さんが自宅をたたんで都内の息子宅へ引っ越して行った。5年前に妻を亡くしてから1人暮らしで、雪が降るころになると、「先生、春まで息子のところです」と言って出かけ、桜が咲くと秋田へ戻る生活を繰り返していたのだが、次第に口ぶりが変わってきた。「この辺は歩道が狭いし、飛ばす車が多くて散歩も危ない。全体が殺風景だ。その点、東京は古い神社や寺からモダンな建物まで色々あって飽きないね」と笑顔を見せ、そして3年目、「余生は東京で暮らします」と息子の勧めに従って秋田を去った。

夫を亡くしてひとり身になった60代半ばの女性は、時々都内の息子宅を訪れていた。やがて彼女は嫁との関係を気遣って息子のマンション近くに自費でアパートを借り、上京中はそこで過ごすようになる。近所の八百屋のおかみさんと昵懇になって働き始め、ついに、「先生、長い間、ありがとうございました。来月から私も都民です」といって秋田を去った。

また、わがクリニックの近所に1人で住む70代の女性画家は、冬場は神奈川の娘宅で過ごし、首都圏の美術館めぐりとデッサンに励み、秋田に帰ると楽しそうに感動した作品の話をし、絵を描いている。彼女も最近、「私、思い切ってあっちへ行こうかな」と言い始めた。

東京一極集中といわれるが、うちの近辺を眺めるに秋田を離れるのは若者だけではない。ある老人は、「先生、都市の空気は自由にするっていうじゃないですか。こんな田舎なのに年寄りは運転するなとうるさいし、運動施設がないから歩くしかない。まるで囚われの身だ」といい、都会の方が便利で楽しい、先が長くないから東海大地震も気にならないと移住計画を語る。この調子で、いずれ介護が必要となりそうな、金にやや余裕のある高齢者も首都圏を目指す。ま、都民ファーストということで、東京には頑張ってもらうしかない。

*写真:佐々木かなえ(千葉克介写真教室)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。