アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.9

ところてん式 ~野生動物と大学~

昔勤めていた病院にある日、熊に襲われたばあさんが運ばれてきた。山菜取りの最中に熊と出くわし、背中や肩を引っかかれた。だが命に別状はなく、救急車からしっかりした足取りで降りてきて、両腕にしっかり山菜の束を抱えていたので医師たちは目を丸くした。こんな豪傑ばあさんは滅多にいないが、里山に熊やサル、イノシシ、カモシカの出没は最近増えている。

これは、杉植林により実のなるブナやナラが奥山で減少し、彼らが人の減った里山に下りてきたためと言われる。おまけに地球温暖化で野生動物は冬の食糧に困らなくなり、仔は増え、生息域の北上も確認されている。とどめはハンターの激減だ。

人はどこへ行ったか。便利を求めて地方では県庁・市役所所在地に群がり、若者は首都圏へ出ていく。今日診察にみえた一人暮らしのじいさんも、妻の3回忌を済ませたら秋田から千葉の長男一家のもとへ引っ越すかどうか悩んでいた。

都内の老舗大学では学生の60%以上が自宅通学となり、全国各地からの学生で保ってきた大学文化の多様性が薄まった。その結果「首都圏地方」の学生による田舎化が進んでいるという。政治が里山化と没個性化に陥るのも当然である。

ところてん式に山奥の熊は里山へ、里山の住民は首都圏へ、子や孫は往復4時間かけて都心の大学へ、北の白熊と隣のパンダは里境の空と海へ…。今、アジアからの留学生が大学の多様性を穴埋めしている。いずれ豪傑ばあさんを教授に、野生のウマとシカを新入生に迎えることで、都会の大学は元気な里山文化をゲットし、子らの賑わいが地方に戻ってくるかもしれない。

地域フォーラムのパネリストとして登壇(向かって左が筆者)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。