アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.93

フジコ・へミングのお友だち

9月6日の北海道大地震の夜『フジコ・へミングの時間』(小松荘一良監督)を見た。年齢非公開とテロップで流れたが、弟の大月ウルフ氏を床屋へ連れて行ったのが1946年頃と推測され、84、5才かと計算していたら『暮らしの手帳94』に載った14才当時の絵日記が「72年ぶりに紹介」…ま、いいか。

映画の冒頭、フジコは「今日はお友だちが来るの」と朝から準備に余念がない。そして部屋に現れたのは……隣座席の妻と長女が「えっ?」「あら!」と声を上げたその人は、パリの画家トモコ・オベールである。私は事前にトモコの妹さんから姉が出るらしいと聞いていたので驚かなかったのだが、パリの熟女2人の交流に胸のあたりがほんわかとなった。

スクリーンで談笑する2人はどこか似ている。共にふっくら丸顔なのはともかく、話し方や表情が純然たる日本人ではない。考え方も私たちとだいぶ異なるであろう。一卵性双生児は同じ国で育てば離れていても大きな差異は生じないが、1人が日本で、もう1人が欧米で育つと双子らしくなくなるという話を医学会で聞いたことがある。若くして日本を離れた2人が私の目に「異邦人」と映ったのは当然かもしれない。

ところで、フジコとトモコを結びつけたのは、たぶん私の長女である。2013年12月に娘はパリのトモコを訪ねた。一緒に散歩中、娘はカフェで煙草をくゆらすフジコを発見した。思い切ってフジコ・ヘミングさんですかと尋ねたところ、そうよと返事があり、私はあなたのファンです、ちょっとお話してよいですかと申し出てOKといわれトモコと一緒に腰かけた。練習中だったリストのカンパネラについて質問すると丁寧に答えてくれたというのである。写真撮影まで許可してもらい、帰国しても娘の興奮は続いていた。写真を見て私も仰天した。

その翌年、東京の隅田トリフォニーホールでコンサートがあった。幕間にフジコは「今日は風邪をひいて声が出ないので滝川さんにお願いします」とガラガラ声で滝川クリステルさんにマイクを譲り、可哀相なペットのために動物愛護協会へ寄付を宜しくと呼びかけたが、彼女は東京と京都のほか、パリ、ロサンゼルス、ベルリンにアパルトマンや家を持ち、犬と猫を飼っている。世話は友人知人に依頼し、私はペットのために働くといい、「人間の子供は大きくなると反抗したり心配したりで大変だけど、ペットは変わらないから」という。どの部屋にも自分の子供時代と両親の写真を飾ってあった。アイデンティティーの確認か。

5才でピアノを始め、東京芸大に進み、天才といわれながら何度か聴力を失い、ピアノ教師で糊口をしのいだ時代を経て1999年に再評価された。そして今なお世界中で年間60回ものコンサートをこなし、演奏にはますます磨きがかかり、「ピアノ労働者の指」と自称するその指に挟んだ煙草の煙がしんみり漂う素晴らしいドキュメンタリーだった。フジコ、ばんざい、トモコ、ばんざいである。

パリにてトモコ・オベール(左)と長女

隅田トリフォニーホール演奏会(2014.5.23)

大月ウルフ「人生は1回きりなんだ。幸不幸を味わい尽くさないと損だ。明日どうなっているか分からないんだ」

パリのカフェでフジコ・ヘミング(右)とトモコと
(2013.12)

オベール家の人々と長女(右から2番目)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。