アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.94

ADHD(注意欠陥多動性障害) ~気の毒な人々~

ADHDを支えてくれた面々(市ヶ谷アルカディア 一期会)

育児がつらい、子がかわいくない、眠れないという女性が受診した。中学時代から不眠症で、今も深夜3時ころまで眠れず、起床はうっかりすると正午というので驚き、夫は怒らないのかと問うと、自宅が釣具店で、夫も姑も育児を手伝ってくれる、私は幼い頃から部屋が足の踏み場もないと親に叱られてきた、家事も苦手だが、午後はルアー作りに集中でき、腕がいいと褒められるというからまた驚いた。「ネットのADHDチェックをやってみたら、どうも当てはまる。薬を試したい」という。

2回目の外来で薬を処方し、2週間後に現れた彼女はちょっと浮かない顔である。服薬後、睡眠覚醒リズムが改善して朝6時に起きられるようになった、料理と片付けが苦痛でなくなり、気持ちにも余裕ができ、子がかわいい、家族も褒めてくれる、でも何だかすべてが以前と変わってしまい、自分が自分でなくなったような気がして…というのであった。

別の女性は薬局に就職して半年後から仕事がはかどらず、ミスが増え眠れなくなった。上司に「物事に優先順位をつけろ。何度も同じ注意をさせるな」と説教され、同僚からも「仕事、そんなに難しい?」といわれ、「もっと自分に合う職に就きたい」と母にいったら、「また仕事かえるの!」と怒られ袋小路だと肩を落とす。ADHDの可能性と薬について説明してきたが、私は適応障害、母も気の持ちようというからと拒否していた。やがて、「ダメ元で飲んでみたい」というので処方した。

2週間後、「目覚めがすっきりして朝の憂うつが減った。カウンター業務はまだ苦手だが、バックヤードでは動きが良くなったと同僚にいわれた」という。薬を倍にした2週間後、「お姉ちゃんの部屋がきれいになったって弟がびっくりしている。料理も後片付けもきちんとできたと母にほめられた」といい、「何だか今までと違う世界にいるみたい。転職はもう少し考えます」と笑顔を見せた。

ADHDは病気ではない、本人の努力不足という声もある。私も確かなところはよくわからない。だがこの2人に共通するのは、「生きにくい」ことと、服薬後「世界が今までと違って見える」という驚きである。若い頃、渡仏して4カ月後に帰国した私は、出国前は気にならなかった日本の電柱電線、看板、信号機がやたら目障りで、まるで異国に来たように歯車が狂い、半年以上ぼうっと過ごした。カルチャーショックである。患者たちも似た経験をしたのではないか。

数年前、精神科医9名でADHD研究会を開いた。座長は、自分は子供の頃から今も机の上は乱雑、食事時に料理が揃う前に手をつけてしまうので妻は私の箸を最後に出すという。別の医師は小学校の頃、落ち着きなく何にでも口を出し、うるさいと教師から廊下に立たされたが、窓越しに教室内にあれこれいうのでグランドに追いやられた。スーパーで買い物中に考え事に耽り、商品を持ったまま外に出て万引きでつかまりそうになった医師など、9名中、私を含む5名がADHDか、疑いであった。『ADHDにとって医師は天職』という人もいる。真偽の程はともかく私も薬…が、この齢でカルチャーショックも怖い。

栗駒高原の秋

北秋田のマルメロ

母と暮らせば(紀伊國屋ホール10月13日)

栗駒の「考えるADHD」

ADHD仲間ジヨン君

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。