日本にお祭りがなくならない限り提灯の需要はあります
私で4代目ですが商売としては3代目で、約100年以上続いています。昔はお寺で提灯を作っていましたが、初代が文字や絵が上手かったのを見込まれて手伝いをしたのがはじまりです。幼い頃から提灯を作る父を見て育ち、家業は長男が継ぐものと思っていました。すでに中学生の頃から、夏休みの遊びたい盛りにも朝から忙しい父に色付けを頼まれて手伝っていました。高校卒業後、そのまま父を師匠として家業に従事しました。
このあたりが藤岡町の新波(にっぱ)という地域でしたので「新波の提灯」と言われています。昔は各家で夜出かけるのに提灯が必要でしたので、どこの町内にも提灯屋さんがありました。また、この近くには河岸があったので名入りの提灯を船頭さんが腰につけていました。そういったことで提灯の需要があり商売として成り立ったのです。今では栃木県で6軒のみです。
祭禮や神社、仏閣の提灯が古くなると作り直しを頼まれますが、それぞれの土地の神社で古くから伝わる絵模様などを、そのまま再現し昔からの技法で作ります。提灯は外で使うことが多いため、膠(にかわ)の入った顔料で色付けして仕上げに油を塗り、雨に濡れても色落ちしないようにします。絵も文字も手描きなので、同じ提灯が40~50並ぶ万灯神輿など、同じ文字を印刷したように大量に手描きで描くのはかなり大変です。どのような仕事も需要がある限り頑張って続けて行きたいと思います。
今年(平成25年)の伊勢神宮式年遷宮に向けて、平成21年に全国から神輿の会が集まったとき、伊勢神宮の菊の紋を入れた名入りの提灯を作らせていただきました。また、宮城県岩沼市竹駒稲荷神社の向唐門に3メートルくらいの提灯も作らせていただきました。
日本にお祭りがなくならない限り提灯の需要はあると思います。学校で提灯のお話や手描き体験などのイベントを通して子どもたちにも伝統ある和提灯に少しでも関心を持ってもらいたいと思っています。
(文:田中 梅雄/下野手仕事会40周年記念誌『下野手仕事会四十年之軌跡』P56-57より)