「山を歩いてきたんだ。あ、立松和平です」
会場に独特の栃木弁が響く。4月5日の「作家・水樹涼子出版記念」の会場(栃木県宇都宮市)では100人余りの観客から「エーッ」と、どよめくような驚きの声があがった。
2010年2月に逝去した作家「立松和平(たてまつ わへい)」の声がマイクを通して聞こえてきたからだ。登場してきたのは「立松和平」演じる俳優 山中 聡(やまなか そう)。ジャンバーもリュックも長靴も立松和平を彷彿させる独自のスタイルであった。
俳優 山中 聡は、エピソードとして広く知られている「オニオンスライス」(原作/立松和平)のストーリーを映像と紙芝居で和平節を披露。立松和平の生まれ故郷、栃木での山中のモノドラマは、立松和平の作家としての深い眼差しと温かさを十分に惹きだしていた。
立松和平原作「オニオンスライス」のモノドラマの舞台で
演じることがわからなかったから続けていた
「もともと僕は演出希望だったんですが、兄(俳優・山中崇史)がやっぱり芝居をしていて舞台を見に行く度に、とても楽しそうに演じていたんですね。それで僕もやってみようかなぁ、と。兄の影響ですね」と山中。
役者らしいメリハリのある顔立ちの中に、いたずらっ子のような大きな目が笑っていた。印象は異なるが兄と同じ雰囲気がある。
初舞台はチェーホフ原作の『桜の園』だった。主演のラネーフスカヤ夫人の若き召使いで『桜の園』に夫人に伴われてやってきた「ヤーシャ」役であった。
「その戯曲ですとヤーシャは若い色男という設定でした。演出家に稽古をつけてもらったんですが、みんなから『面白い!面白い!』と……。もちろん演出家の技量なんですが、僕は何が面白いのか、さっぱりわからなかった。演技を楽しむことを全くよくわかっていなかったんです」と、当時の初舞台を振り返る。20歳になったばかりであった。
「お芝居を始めた何年かは、演じることがよくわからなかった。だから、続けていたのだと思います」
役者としての原石は少しづつ磨かれて才能を発揮。1998年25歳のときに『卓球温泉』で映画デビューを果たす。
「映画が好きで映画に出たいと……。まぁ、たいていの俳優は映画に出たいと思っている人が多いと思いますが、僕もそんな一人だったので、とても楽しかったですね。当時、一緒になって映画を作っていた監督やスタッフさんは、今でも交流があります」
立松和平原作「オニオンスライス」のモノドラマの舞台で
朗読の音楽を担当するピアニスト原 直子と打ち合わせ
俳優とは、ちょっと変な「お仕事」
俳優の道を歩み始めた山中は映画、舞台、テレビドラマ、CMと幅広く活躍しはじめた。たくさんの出演作品の中で「印象に残る作品は?」の問いに、作品名と監督名をあげていった。
「印象に残らない作品はないのですが、特に印象深いものですとデビュー作の『卓球温泉』もそうですが、2カ月弱インドネシアで頭を坊主にして真っ黒になりながら挑んだ戦争映画『ムルデカ17805』。世界的な巨匠クエンティン・タランティーノ監督の現場を生で体験できたアメリカ映画『Kill Bill』。それから中国へ返還される前の香港で撮影した巨匠ミッシェル・ゴンドリー監督の『ポラロイド』のCM。立松和平原作で僕たちの仲人役を務めてくださった高橋伴明監督の問題作『光の雨』。同年代の若い監督でカンヌ国際映画祭でたくさんの賞をいただいた『運命じゃない人』。僕の大好きな監督の一人、奇才、飯塚健監督との出会いのドラマ『放課後グルーヴ』。あっ、切りがないですね」
多くの突出する作品と監督たちの名前が矢継早に並べられた。それらの作品の背景にあるさまざまな歴史の中のそれぞれの人生を演じる。俳優として大切にしていることがあるという。
「嘘をつかないこと。演じることを楽しむこと。いただいた役を成仏させること」
俳優として演じてみたい役は?と質問すると「逆に演じてみたくない役というのは俳優はないと思います。僕はやっていて楽しい、いろいろなアイディアが出てくるのは、コメディーの要素が多いものですね」
そして、山中にとって俳優とは?の質問には「職業です」ときっぱり。「でもちょっと変なお仕事ですよね。物語の中で殺されたり、殺したり、女装したり、痴漢したり、されたり、刑事になったり、犯人になったり、医者になったり、ヤクザになったり、江戸時代の人や弥生時代の人、外国人、宇宙人にもなれます。変わった仕事ですよね。だから、面白いですよね」
作家「水城涼子出版記念会」で新刊を朗読
妻桃子と舞台で挨拶する
桃子はあげない。貸してあげる
「さすが、本物の役者さんはちがうねぇ」などと、集まった人々は顔を見合わせてため息をついていた山中のモノドラマ「オニオンスライス」。原作者立松和平の長女桃子(イタストレーター・絵本作家)が山中の妻。そして、今は二人の息子の父である。
「妻とは、僕が劇団に入っている頃出会いました。彼女はまだ大学生でした。『光の雨』の撮影の時には一緒に住んでいましたね」
立松和平原作の『光の雨』(高橋伴明監督)に出演後、高橋監督、惠子(女優)夫人の仲人で結婚式をあげている。義父となった立松和平との思い出は特に深く胸に刻まれている。
「わっぺいさん(立松和平の愛称)と呼ばせていただいていました。妻と結婚する前から本当に良くしていただいて、僕の友だちとも仲良くて、みんなで宇都宮の書庫(立松家の元住居)を泊まりがけで片付けしたり、餃子を食べに行ったり、熱海の温泉に行ったり、たくさん遊んでもらいました」。中でも立松和平と交わした忘れられない場面がある。
「結婚の報告をしに自宅にお邪魔した時、僕が『娘さんを僕にください』とベタな台詞を言うと、『あげない。貸してあげる』と答えが返ってきました。さすがだなぁ……と思いました。何年かして『わっぺいさん。桃ちゃんの返却期限はいつですか?』と冗談を言うと、『俺そんなこと言ったっけ?』と、本当に忘れていたようでした。きっと娘のことを大事に大切に育てていたからこそ、とっさにそんなことを言ったんだなぁと、ほっこりした気分になりました」
胸に残る亡き義父立松和平の故郷で、作家「立松和平」を俳優「山中 聡」が舞台で甦らせた。栃木の誇る作家「立松和平」を惜しむ人々は、演じる山中 聡の俳優としての計り知れない感性に心打たれて盛大な拍手をおくり続けた。
妻桃子の作・絵『アユルものがたり-那須のくにのおはなし-』出版記念サイン会の傍らで息子2人と