栃木県益子町の自然豊かな山里にある「ワグナー・ナンドール アートギャラリー」にて、(公財)ワグナー・ナンドール記念財団の理事、和久奈ちよさんにお会いした。ちよさんは北海道から帰ってきたばかりで大変お疲れのはずにもかかわらず、私たち取材陣を快く迎えてくださり、インタビューに応じながら館内を案内してくだった。「今年で米寿(88歳)です」と、さらりとおっしゃるちよさんは、時には少女のような愛らしい笑顔を見せながら、過去をかみしめるように振り返りつつ穏やかな口調で語ってくださった。
写真1 ワグナー・ナンドール アートギャラリー外観
取材中の和久奈ちよさん
彫刻家ワグナー・ナンドール氏との出会い
和久名ちよさんの夫、故ワグナー・ナンドール(1922年~97年)氏は75年に日本に帰化し「和久奈南都留」と日本名を持つハンガリー人であった。彼の父親は医師であったが、代々彫刻家を輩出した芸術家の家系であった。彼は父親の反対に逆らって密かに18歳でブダペストのハンガリー国立美術大学を受験、難関な美大に合格した。父親は美大に合格したことは喜んだが、「医者になるなら学費は出すが美大に行くなら学費は出さない」と一斉の援助を絶ってしまった。
ワグナー氏は「謹厳な父は、だらしない生活態度の芸術家を嫌ったのだと思う。自分の感性でもし医者になったら三日で自身が病気になってしまう」と話していたという。父の意見を半分は受け、最初は建築を勉強し後に美大を受験したのだった。
「ハンガリーの美大の授業は内容も大変濃くて、とても優れた教育をしています。夫は昼夜問わずにアルバイトをしながら、猛勉強して1年くらいで大学の全課程を学んでしまったそうです。主人の家は代々軍人か芸術家か、またはカトリックのお坊さんかというような家系ですが、第2次世界大戦のときに志願して入隊しました。激しい戦闘の最前線で奇跡的に命は助かりましたが、瀕死の重症を負ってしまったのです。生還してから自分を含め身も心も傷ついた人たちを癒すために、平和への願いを込めて彫刻作品をつくったのです」
彼の腕の中で死んでいった兵士をモデルにした代表作「ハンガリアン・コープス像」は、今はハンガリーの古都セーケシュフェヘーゲルバール市の中心にある公園に建立されている。彫刻家の家系ゆえに最初から名は知られていた彼は、その才能を高く評価され彫刻家として最初から輝かしいスタートを切った。
46年、ハンガリーはソ連軍の侵攻により王政が廃止されハンガリー共和国(第2共和国)が成立、共産主義社会のソ連の軍事支配下で衛星国として近隣国とともに圧政に苦しんだ。ワグナー氏は国から共産主義のプロパガンダとしての彫刻を作るように要求されるが、断固として応じなかった。その間は彫刻家としての活動を中止している。
「彼が戦争から帰ってきたら国が変わってしまいました。自由に作品をつくることが許されなかったのですが、政治的な目的のための作品は絶対に作りたくないと言って、博物館に勤務しました。建築家でもあったので、いろいろな発想をし博物館でたちまち頭角を現したようです。共産主義社会になってから博物館は野菜置き場になっていました。国からの方針を取り付けて博物館再興のリーダーとして働きました。世界的な学者がたくさん集まってきて博物館内外の掃除から始まったそうです」ワグナー氏はセーケシュフェヘールバール市にある世界有数な博物館の再建をはじめ、ハンガリーの歴史・文化の保存に全力を注いだ。
56年、ソ連の圧政に苦しむ民衆が蜂起、「ハンガリー動乱」である。彼は祖国ハンガリーを圧政から開放しようと思想的に民衆を率いる革命指導者の一人に選ばれ闘った。公職を追放されソ連配下の共産主義政府に命を狙われる日々、同じ政治的指導者や学者らの多くは殺害の手を逃れて、オーストリア、アメリカ、スウェーデンへと亡命を余儀なくされる。彼は友人の手助けでスウェーデンへの亡命を果たした。
ちよさんは日本女子大を卒業後、母校の高校で3年間教壇に立った。その後、アメリカの大学院に留学したが、留学終了後スウェーデンを通って帰国の予定であった。専門は英文学だったが子どもの頃から絵が好きで、本格的に師について勉強したいと思っていた。
「日本では素人の私を本気で指導してくださる先生に出会えるかどうか疑問でしたので、スウェーデン滞在中に、友人を通して『真剣に勉強したいので、どなたか絵の先生を紹介してください』とお願いしていました」
このことがちよさんの人生の大きな転機になった。スウェーデンの友人は亡命して生活のために職を求めていた彫刻家ワグナー・ナンドール氏を紹介したのだった。
ワグナー・ナンドール氏
アトリエで
1970年頃、富士山を背景に
永住の地「益子町」へ
66年4月29日、ちよさんとスウェーデン国籍を取得したワグナー氏は、さまざまな困難を乗り越えて結婚、69年の12月に日本永住の目的で来日した。
「ハンガリーの方はみなさん日本が大好きで、ことに主人の父親は日本庭園を自宅に作っていたくらいです。この時代のヨーロッパの人は大変日本人を尊敬していたのです」
永住する前に2人で来日した際、ちよさんの恩師が益子町を案内したところ、初めて訪れたこの陶芸の町を夫妻ともに大変気に入ってしまったという。
「自然豊かな里山がとても良くて、将来こんなところにアトリエが建てられたらいいな……。そう思って、日本での永住を決めた時にこの土地を選びました。夫は8歳年上でしたからいつも自分が先に死ぬと決め込んでいて、私が一人になっても困らないように『まず自宅を作る』と言ったのですが、私が無理に『アトリエを先に』と言ってアトリエを最初に建てたのです」
結局、職人任せでは自分たちの思うような建物が建てられないことが分かり、ワグナー氏が建築学も学んでいたこともあって、大きな電動ノコギリと電動カンナ、材木などを買って夫婦2人でアトリエを建て始めた。
「ほとんど私たちの手作りです。鉄骨の組み立てと石を積んだりするのは職人さんの手を借りましたが、土地をならすためにブルドーザーを買って二人で造成してアトリエから建てていきました。夫の計画が良くできていましたので、そんなに重労働とも思わずに毎日少しずつ建てていきました。屋根を作る頃になると主人の頭は次の建物にいっていたので、屋根の釘は一本残らず私が打ちました。現在の屋根は職人さんが葺き替えていますが、まだ若く元気でしたから頑張ることができたのです」(写真1)と笑いながら懐かしそうに話す。彼女の優しい笑顔にある瞳は、強い意志が込められていた。
「戦争は、する側もされる側も勝った側も、全然幸せじゃない」とワグナー氏とちよさんは心に留めていた。ワグナー氏は敬愛する祖父からアメリカで出版された新渡戸稲造の著書『武士道』(英文)を譲り受け、父から『老子』(英文)を、母から『聖書』を渡されている。ワグナー氏の母親はロシアの貴族の末裔で彼に聖書を読むようにと渡した熱心なカトリック教徒だった。
「世界の平和を常に考えておりましたが、平和への願いは、戦争の体験をしているので人一倍強いですね。『世界の国々が最も幸せを感じていたのはいつだったのか、それはどういうベースがあるのか』など、彼は美術家ですから分析的美術史を深く研究して、彫刻作品で表しました」
94年、ワグナー氏の平和への願いである、すべての国の人種と宗教の壁を越えた世界平和への表現として『哲学の庭』(写真2)の彫刻作品が完成した。作品は各3組28体を鋳造し、当ギャラリーに1セット、ハンガリーのブタペストに1セット、東京都中野区に1セットある。「ここにはハンガリー大使一行も来館して見てくださいました。国連本部にも置きたいと思い、夫の没後にもう1セット鋳造しました」
ワグナー氏はちよさんを助手にしてハイスピードで作品を作り上げていたという。彼の彫刻は彫らずに粘土を付けていく塑像。ものすごいスピードで粘土を付けていってハンマーで叩いて朝から始めてお昼ごろには大体形が出来上がっているという。
「彫刻に関してはあらゆることを勉強していたので迷いは全然なかったですね。若い時に沢山勉強しましたので、制作に関しては何の苦もなく作っていきました。半年なり構想を温めて、はじめるとあっという間に作ります。小さい粘土の細工物なら30分足らずで完成させてしまいました。もちろん絵も描きましたので絵画作品も残っています。私は『明日は制作にかかるので手伝ってください』と言われると、主人が制作に関して真剣だと分かっていますので、下着からすべて真っさらなものを用意して、アトリエで手伝ったりしていました。家庭人としては彫刻家らしくなく落ち着いた静かな人でしたから、ゆったりとしたごく普通の生活でしたね」
写真2『哲学の庭』(photo by Inui Tsuyoshi)
平和を願う夫の意志を継ぎ「公益財団法人ワグナー・ナンドール記念財団」を設立
ワグナー氏が祖国ハンガリーで30歳のときに完成させた代表作の『ハンガリアン・コープス像』はハンガリーで保存されていた石膏原型から鋳造されて、2012年に当ワグナー財団に寄贈された。
「戦争に翻弄され、政治的にも侵略されたハンガリーで『ハンガリアン・コープス』を作らなかったら生きていけなかっただろうと思いました。天に向かった二本の腕の右手は死を、左の手は空に向かって希望を指しています。どんな時でも決して希望がないということはない、ハンガリーの過去、現在、未来を象徴している作品です」
今年でワグナー氏没後20年になる。益子のアトリエには彼の愛用の手作りの椅子とパイプが今もそのままおかれている。(写真3)
「ここが一番好きと言う方が多いです。主人は『アトリエはすっかり片付けて死んだような状態にしないで誰かに使ってもらいないさい。若い人の役に立てばいいから』と言ったのですが、彫刻家の方はこれだけ雰囲気のあるところではやりにくいというので、画家の方に自由にお使いいただこうかとも思っています」などと、ちよさんは思案している。作品を作る夫と共に過ごしたアトリエでの思い出は深い。
ワグナー氏は、「日本の芸大の彫刻科は教育が足りない勉強が足りない、彫刻は8割がたは才能よりどれだけ勉強したかにかかっている」と日頃から言っていたそうだ。例えばハンガリーの美大はデッサンで1週間、彫塑で1週間の試験があるので、大変厳しい選考になる。今、財団ではワグナー氏が考案したデッサン教授法のDVDを制作中である。
「私も彼に習いましたが、学びやすくてどんどん上達します。夫はいろいろなことに興味を持っていて、若い人をここに泊めて教えていました。ただで泊めて教えると真剣な人は居心地が悪くなって早くいなくなってしまうのが残念でしたが、夫はそれでも良いと言って教えていました」
87年、「財団法人タオ(老子の教えから『道』の意味)世界文化発展研究所」を設立、「主人は自分の名前を冠したくないというものですから」と。しかし「宗教団体と間違える方もおられるので」、公益の認可を受けた2011年に「公益財団法人ワグナー・ナンドール記念財団」に移行した。
最後に、ちよさんは「夫は彫刻家以外の何者でもないのです」としめくくった。ちよさんは今も夫ワグナー氏と共にいて、彼の作品と、夫婦共に汗して作り上げたアトリエを守り続けていると思えた。
ギャラリーのパンフレットを開くと、遥か未来を見つめているようなワグナー氏の写真が掲載されている。その下に彼の生涯をかけた思いが書かれていた。
「私は文化、宗教などの相違点よりも
各々の共通点を探しているのです。
共通点を通してしか
お互いに近づくことは出来ないのです。
『哲学の庭』於 益子
ワグナー・ナンドール」
和久奈ちよさん、アトリエにて
(取材:アートセンターサカモト・ビオス編集室/2017年9月4日)