アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「BIOS電子版」No.49

独自の経営手腕と人生を楽しむ極意 光青・青柳卓会長

「木工のまち鹿沼から全国、世界を相手に」 決め手は良質な木材選び

栃木県鹿沼市は高い技術を持った木工業者が集まり、木材資源も豊富な「木工のまち」。そんな「木工のまち鹿沼」を代表する総合木材加工会社の一つが株式会社・光青だ。木製建具、家具、インテリアなどをオーダーメイドで製造する。青柳卓会長は家業を引き継ぎ、独自の経営方針で事業を拡大してきた。一方で、社長職を譲るまで社内施設で周辺住民や知人を招いてコンサートを開くなど地域の文化発展にも貢献してきた。「青柳政和」の名で続けてきた作陶活動では独特の感性で作品を生み出し、料理や野菜作りもとことん極め、人生を楽しむ達人でもある。

㈱光青 青柳卓会長

「鹿沼組子」生き残りのカギは開拓者精神

山の形に盛り上がる迫力ある大波、空には羽ばたく鳥。

青柳さんが若いころ、4カ月かけて中野昭男さんと共に制作した鹿沼組子の作品「彫刻組子戸」だ。

光青の敷地内に建つ社員福利厚生施設1階に飾られた鹿沼組子でできた衝立である。連続した幾何学模様が組子の特徴だが、無数に組み合わせた組子の木肌の色の違いを巧みに生かし、浮世絵のような図柄が浮かび上がる。

「組子」は釘や金具を使わず組みつける日本独自の技術で、細かいパーツに切り込みを入れて組み合わせ、「麻の葉」「胡麻柄」といった模様を連続させる。部材一つ一つの切り込みの大きさ、角度は寸分の違いも許されず、無数のパーツを正確に切りそろえ、手作業で組み込んでいく。まさに木工技術の結晶。

青柳さんは自社の鹿沼組子は独特のものと強調する。

「部材の厚みは中も外も同じ厚さで作る。これは、ものすごく難しい。よそのものとは全く別物」

社内には何人もの名人、熟練した職人がいるが、鹿沼組子自体は住宅の洋風化の中で需要は極端に減り、後継者不足にも悩まされている。

組子は欄間、障子、襖など高級和風建築の中で使われてきた。住宅は和風から洋風へと変わり、障子や欄間もない。組子の需要自体が極端に少なくなっている。

「安定した収入がないと、若い人には魅力がない。伝統だけを言っていてもダメ。むしろ、開拓者精神が必要だ。発想の転換、そして行動に移すことが必要」

洋風建築にどう取り入れていくか。ホテルなどのインテリアにデザイン的に組子を取り入れるなど新たな需要の掘り起こしを提唱する。

鹿沼組子「彫刻組子戸」と青柳会長

鹿沼組子の模様

「一番くじ」業者の信頼を得て良質の材料を確保

「開拓者精神」は青柳さんの経営姿勢でもある。独自に販路を拡大し、事業を発展させてきた。

青柳家はこの地域の名家。近くの宝光寺に残る家系図で遡ることができるのは16代前という。「昔、火事があって焼けたものがあって、それ以前は分かりませんが、分かる範囲で私が16代目。社長を継いだ長男が17代目、高校1年の孫が18代目」と青柳さん。5代前から木工に関わる仕事を家業としてきた。1935年(昭和10年)に木工所として創業し、1967年(昭和42年)に青柳さんの父・光男さんが「光青木工所有限会社」として組織替えした。

青柳さんも早くから父を手伝っていた。

「門前の小僧ですから高校卒業のころには一般的な建具を作ることはできたんですね」

1970年(昭和45年)、20歳で結婚。1週間の予定だった九州への新婚旅行を3日で切り上げた。仕事が忙しかったからと振り返る。帰宅したばかりの新婚夫婦に父・光男さんがいきなり切り出した。

「親は死んだものと思え」

光男さんは45歳でまだまだ現役世代だったが、一切を20歳の青柳さんに任せるというのだ。事業を引き継ぐにあたって条件も示した。

「他人に迷惑をかけるな。土地を手放すな。土地は先祖から預かっているもの。当主といっても管理人に過ぎない。貸すことも禁止」

土地を担保に金を借りることも認めないという。困ったときに売り払ってしまうからだ。「死んだものと思え」という父親には相談もできないし、金もハンコも借りられない。そんな中で青柳さんは環境の変化に対応し、会社を一回り、二回り大きくしていった。

住宅だけではなく、寺社仏閣の特殊な注文、高級ホテルの建材なども手掛けている。

その根本は、品質、適正な価格、納期の厳守。

良い製品を製造するためには、材料となる木材をしっかり見極める必要がある。鹿沼や日光はスギ、ヒノキといった加工性、耐久性に優れ、建築建材に適した良質の木材に囲まれた地域。それぞれの特徴を見極めて建具、製品に生かす。

「一番くじを引いて、一番先に見せてもらって、一番いい材料を買う」

独特の言い回しで同業者に先駆けて良質な材料を確保してきたことを誇る。そのための独自の経営方針が取引業者との関係の築き方だ。こちらが原料を購入する買い手でも、その立場を利用して接待をさせたりすることはしなかった。

「ラーメン1杯だって取引先に支払わせたことはない。相手は人間。機械じゃない。こちらもいい材料を手に入れるため、お願いするわけだから接し方がある。船で積まれてきた材料には良い物も悪い物もある。材料は無造作にあるわけじゃない」

そして、支払いは値切らず、遅れず、約束はきちんと。20歳から通してきた方針だ。

こうして良質の木材を手に入れてきた。

毎年11月3日には「1か月早い忘年会」を開き、取引先を招待。自ら料理長となって腕を振るい、先輩や友人の料理人、すし職人らに出張してもらい、もてなしてきた。

自社で制作した大きな木のテーブルにて

光青アメニティ・スペース「ラ・ルーヴ」

地域の文化発展に貢献 独特の感性で作陶活動も

11月3日の「1月早い忘年会」は、1991年(平成3年)に社員福利厚生施設アメニティ・スペース「ラ・ルーヴ」が完成したことで地域の文化活動へと形を変えていく。地域住民、知人も招待してコンサートを開くようになった。妻・清子さんの伝手でピアニスト・原直子さんを招き、また、原さん紹介でほかの音楽家とのつながりもできた。ジャズも採り入れ、1年おきにジャズとクラシックのコンサートを開いてきた。

「音楽には国境がないんですよ。音楽は身近だけど、生演奏を直接聴く機会はなかなかない。CDで聴くのとは違う場を提供したかったんです。いろいろなことをやるのも嫌いな方じゃないので」

コンサートの前には料理を振る舞う。トリュフ、フォアグラ、キャビアなどの世界の高級食材を空輸させる。北海道や広島など各地に取引先、知人がいるので、伊勢エビ、明石のタイを取り寄せたこともあった。

11月3日の文化の日コンサートは社長を長男に譲るまで続けた。

会長に退いた今、会社経営は一切を社長に任せ、野菜作りや養鶏を楽しんでいる。飼っている鶏の中には、青緑色の卵を産むアローカナ約70羽がおり、放し飼いにして飼育する。そして青柳さんは陶芸家の顔も持つ。

45歳のときに陶芸を始めたが、全くの自己流。料理もそうだが、誰に教わったわけではなく自分の感性を信じて思いのままに創作している。

自宅の敷地の一角には大きな窯があり、ろくろを回す工房もある。

「ラ・ルーヴ」の2階に作品を展示するスペースがあり、自然の風合いを生かした大胆な造形の大ぶりの作品などが並ぶ。

「生あるものは1分1秒たりとも過去の国にも未来の国にもいけない。自分だけでなく、周りの人もみんな楽しくなければ、生きている意味がない」

人生そのものが一瞬一瞬を生きる瞬間芸術だといい、人生を楽しむためにやりたいことをとことん極めるのが青柳さんの流儀なのだ。(文・取材 水野)

自作の巨大な窯

自社の枝垂れ桜の前で


陶芸家としての顔 型に囚われない独特な造形美

青柳さんには株式会社光青の会長以外にも、陶芸家というもう一つの顔がある。

過去には栃木県芸術祭の工芸部門にて準芸術祭賞を受賞した。その後も出展した作品は同芸術祭に入選するなど幅広く評価されている。

「自己流で作品を制作しているので、私の焼き物は独特です。」

独学で焼き上げた数々の作品を前に、青柳さんは誇らしげに言った。

土や釉薬は岐阜県のものを使用しているため、美濃焼の様式である鮮やかな緑色の織部焼や、柔らかい乳白色が特徴の志野焼などの特徴を持っているが、普段我々が目にする美濃焼とは印象が異なる仕上がりになっている。


〈抱擁〉

第74回栃木県芸術祭美術展入選作品


それを感じさせるのが、作品の造形だ。回転台を利用して成型する”ろくろ成型”や土を指先で伸ばしながら成型する”手捻り”、土を板状に伸ばし貼り合わせるなどして成型する”タタラ作り”を駆使し、独自の装飾を加え焼き上げている。

その作品の一つ〈抱擁〉は、淡い赤色と乳白色が交じり合った台形状の器で、表面には縦方向に大きく緩やかな溝があり、その溝の凹凸に光が当たることで複雑な陰影を作り出している。器の口縁から底にかけ緩やかにカーブを描き柔らかな印象を与えるこの器の形や色合いは、まるで人肌のように温かみを感じる。

一方、第74回栃木県芸術祭美術展工芸部門にて入選をした作品は、緑色と赤褐色で彩られた円柱型の壺で、ねじられた帯状の装飾が施されている。直線的でありながらも縄文土器のような独特な装飾で、こちらの作品は表面の光沢や装飾の滑らかさに無機質さや冷たさを感じる。〈抱擁〉とはまた異なる作風だ。

型に囚われない造形こそが青柳さんの作風だ。誰にも師事せずに自分自身の感性で作品を制作しているからこそ、作品に込められている思いの強さが見る人の心を捉えるのではないか。(文・取材研修 六角)



青柳卓(あおやぎ・たかし)

青柳卓(あおやぎ・たかし)

株式会社光青会長。1950年、栃木県鹿沼市出身。栃木県立鹿沼農商高校卒業後、父・光男さんが設立した光青木工有限会社の事業を引き継ぎ、新たな取引先を開拓、事業を拡大してきた。工場、事務所を順次増築し、1986年、株式会社光青に改組。1988年に代表取締役社長に就任。2015年、会長に就き、社長職を長男に譲った。地域経済界の活動にも関わり、鹿沼商工会青年部の初代会長を務めた。現在は、鹿沼労働基準協会長、栃木県労働基準協会連合会副会長。長年、保護司も務め、鹿沼更生保護サポートセンター長も務めている。作陶活動は25年以上に及び、栃木県芸術祭美術展工芸部門で準芸術祭賞受賞歴もある。