地域の伝統工芸品を守り、次世代に継承
下野手仕事会創立50周年記念式典が、このほど、宇都宮市の栃木県立博物館講堂で手仕事会会員、来賓として福田富一知事らが出席して開催されました。
手仕事会は1974(昭和49)年11月、栃木県内の手仕事師たちが集まり、地域の伝統工芸品を守り、次世代に継承していくことを目的に発足しました。
記念式典で藤田眞一下野手仕事会会長は、次のようにあいさつしました。
藤田眞一「下野手仕事会」会長
「下野手仕事会がこれまで続けてこられたことは2つの理由があると思っています。1つには手仕事に対する多くのご支援があること。もう1つは手仕事会会員それぞれが今に合う作品作りに精進されてきた結果であると思っております。
40周年から今回の50周年までには、会員が亡くなったり、一身上の理由で退会されたり、そしてまた新規入会者があり、10年前と同数の34名の会員を維持してまいりました。
栃木県は14市11町がありますが、現会員がいるのは10市5町です。今後の目標は会員のいない市町の中で手仕事をされている方々を会員に迎え、下野の国は手仕事の盛んな国であり、地域の伝統と文化に寄与しながら共に生きる喜びを感じられる豊かな暮らしのできる栃木県にしていきたいと思っています」
創立50周年を記念し10月8日から14日まで県立博物館で展示即売会が行われました。また13日には同講堂で、下野手仕事会最高顧問の柏村祐司氏が「下野の手仕事50年」と題し記念講演を行いました。
記念講演
下野手仕事会最高顧問・柏村祐司氏「下野の手仕事50年」の要旨
大畑(武者絵)、日下田(草木染)、福田(烏山和紙)、渡邉(間々田ひも)の4氏が発起人となり下野手仕事会創立。
私はたぶん、下野手仕事会の会員の皆様を含めまして、下野手仕事会の由来・歴史に一番詳しい人間じゃないかなと思います。
私は昭和42年に栃木県の高等学校の教師になりました。4年間、教師として勤めた後、縁がありまして栃木県教育委員会に移り栃木県の民俗関係の文化財の保存・保護の仕事を頼まれました。そのなかで、昭和49年にこの下野手仕事会が創立されました。
教育委員会に入って間もなく、栃木県立郷土資料館が出来上がりました。つまり私はその要員でもあったのです。それが昭和47年です。この郷土資料館の初代館長が尾島利雄さんです。栃木県での民俗研究の第一人者であり、当時栃木県文化財保護審議員をされていました。手仕事関係のものも大いに保存していかないといけないということで尾島先生が中心となり、手仕事会の立ち上げに奔走したのです。尾島先生は車を運転しませんでしたので、私が運転を頼まれ一緒に設立にあたっての関係者のところに行き、手仕事のいろんな話を伺いました。
最初に尾島先生の考えに同調された手仕事の職人の方が大畑力三さん(下野手仕事会初代会長)でした。市貝町で武者絵のぼりを作っていた方です。号を耕雲と仰っていました。力三さんは2代目、3代目は大畑英雄さんという方ですが、やはり耕雲を名乗っていました。
大畑力三さんの他に、益子の日下田さん。今も日下田正さんが草木染をやられていますが、正さんのお父さんの博さん、それから烏山和紙の福田さん、間々田ひもの創始者の渡邉浅市さんという方々が下野手仕事会の設立発起人になっています。尾島先生はあくまでも裏方で顧問的な存在でありました。昭和49年11月17日に栃木県立郷土資料館3階の講義室において設立総会を行いました。
郷土資料館はどこにあったかご存知の方いらっしゃいますか。実は今でも建物が残っています。栃木県立美術館の東隣にある鉄筋コンクリート3階建ての建物です。元々、理科センターとして建てられたものです。傷んだ窓は一旦開けると、なかなか閉めることができませんでした。全くお粗末な建物でした。
そこを事務局的なところにして手仕事会が創立されました。年1回、そこで手仕事展を開催しました。もちろん鍵のかかるガラスケースなどはありませんでした。9年間展示していましたが、幸いなことに作品が盗まれるということはありませんでした。それはやはり、手仕事の作品に対する栃木県民、見学者の心構えだったと私は思います。
現在、あまり手仕事という言葉が使われません。手仕事会の人たちが作る作品は現在、栃木県では工業振興課が主管となって保存振興を図っていますが、県あるいは国は伝統工芸という言葉を使っています。手仕事会が創立された当時は、国にも県にも伝統工芸を取り扱う部署がありませんでした。尾島先生や発起人の方々は手仕事がいいだろうということで、手仕事という名前を付けたわけです。命をかけて手技でモノを作る、そういう職人魂満点の人たちばかりが集まって手仕事会がつくられたのです。
下野手仕事会最高顧問 柏村 祐司氏
下野手仕事会 顧問・特別会員の方々
民芸の美を見出した浜田庄司から手仕事の大切さを学ぶ
いわゆる手でモノを作る、手仕事の作品は大量生産で作られたもの、例えばプラスチックで作られたものとはひと味もふた味も違います。手のぬくもりを感じます。
例えば、しば蓑。山間地で、農閑期にミヤマカンスゲという植物を採って、それを干して作ります。あるいは、ヤマブドウの皮を編んで作った背負い袋や藁で作った長靴。これらは全くの素人の方が自分で材料を集めて、いわゆる自給のために作ったものです。自分で使うだけだから、そんなに美しさなんて考えなくてもいいじゃないかと思うのですが、皆さん、非常にこだわって見た目にも素晴らしいものを作るんです。
こういったものに、柳宗悦や濱田庄司、河井寛次郎、イギリス人のバーナード・リーチたちは、従来の美術品、工芸品とは違う美しさを見出し、民衆の工芸品として民芸品と呼んだのです。名もなき人々が作った美しさを民芸の美と言ったのです。同時にそういう手技を手仕事と言ったのです。
私が思うには大畑さんや日下田さん、渡邉さん、福田さん、手仕事会の発起人の方たちは濱田庄司たちの考え方に影響を受けたのではないか、特に大畑さんと日下田さんは浜田庄司の影響を受けています。民芸とか、手仕事とかの大切さを一生懸命教わったんだと思います。
それで伝統工芸という言葉を使わず手仕事という名前を用いたのではないかと思うんです。あくまでも私の憶測です。いずれにしても創立当時は伝統工芸という言葉は一言も出ていませんでした。
全国に先駆けて、自らの手で伝統の手仕事を守る組織を立ち上げる
下野手仕事会が創立された、ちょうどその頃、当時の通商産業省は、いわゆる伝統工芸に関する法律を作りました。つまり、伝統工芸の手技、それによって作られたモノを保存継承していかなといいけないということです。そこには、一つの時代背景がありました。高度経済成長です。
栃木県もご多分に漏れず、工業団地をいっぱい作りました。働く人の給料も増えていきました。職種でいえば、いわゆる大産業、重化学工業です。工業団地に進出して来るのは大企業ばかり。そういう産業が日本の輸出頭になり経済発展を成し遂げることができたのです。それはそれで大変立派なことだと思います。しかし、そこに取り残された人たちがいます。例えば、結城紬や益子焼、隣の県の会津塗り、石川県の友禅とか、いわゆる伝統的工芸品の担い手たちです。地域で長く伝えられてきた伝統工芸が地域の経済を潤してきたのですが、高度経済成長になると、そういうものが取り残されて、次第に売れなくなっていくのです。
そうすると地域経済が衰退してしまうため、通商産業省は地域産業の振興を図るため地場産業の担い手であった伝統工芸品産業を奨励したのです。昭和49年、伝統的工芸品産業の振興に関する法律ができたのです。
下野手仕事会は、同じ昭和49年に創立されました。創立には県や国は一切関わっていません。民間の人たちが、このままではいけない、手仕事に関わる人たちがお互い、一致団結して、今でいう伝統工芸品産業を育成するということを、下野手仕事会は自らの手で作り上げた。大したものじゃないですか。全国に先駆けて成し遂げたのです。
手仕事会発足当時のメンバーは40人前後だったと思います。財政的にも決して豊かな会ではありませんでしたが、そういったものの創立に携わったということは、私にとって大変な誇りでした。
栃木県立博物館で開催された、創立50周年記念展
栃木県伝統工芸品、伝統工芸師の選定
昭和49年、国は全国の伝統工芸品を選定しました。栃木県から益子焼と結城紬が選ばれました。選定基準は、少なくとも100年前から伝わっている技術であること。100年前から使われている材料であること。地場産業として少なからず数十軒がその地域の中で同じようなことをしていること。そういうものが国の伝統工芸品として選ばれました。
約10年後、栃木県でも工業振興課が中心となって栃木県の伝統工芸品が選ばれ、そういうものの制作に携わる方を伝統工芸師として選定されるようになりました。選定基準は国のものとほとんど同じです。違うのは、栃木県発祥のものではない場合は、栃木県で50年以上継続していることという部分です。間々田ひもの創始者の渡邉浅市さんは東京で江戸系の組紐を学び、間々田の実家に帰って始めてから50年経っていましたので、伝統工芸品に選ばれています。
これらは伝統工芸品というモノに対しての指定ですが、手技の素晴らしさについては、別個に文化庁が文化財として指定しています。文化財保護法ができて、日本の伝統的な手技を継承する、一際優れた手技を持つ人を国指定重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に指定しています。その第1号が濱田庄司です。
その後、栃木県からは益子焼の島岡達三さん、佐野の陶芸家、田村耕一さんが選ばれています。それから大田原市を中心として竹工芸で藤沼昇さんと勝城蒼鳳さんが人間国宝に認定されています。
不易流行。何を変えず、何を変えていくのかを見つめる
伝統工芸と言っても、何も変わらず昔のままでいては、やはり滅びてしまうと、私は思います。つまり、その時代に合ったものを作って、人に訴えるところがない限り、どんなに長い伝統があっても難しい。ですから手仕事会の人たちも、何を変えないで、何を変えていくかということをしっかり見つめていただきたい。技術や材料は安易に変えずに、人々の要求に合わせて新しい作品、品物を作っていく。不易と流行という言葉がありますが、手仕事あるいは伝統工芸の世界も、まさにそうだと思うのです。
手仕事会の方もそのことを頭に入れておいてください。私のようにパソコンがあまり使えない人間は、これからの伝統工芸には不向きです。大いにパソコンを使いこなして自らの情報を発信する。これまでは、これだけの人しかターゲットにされていなかったけど、パソコンでインターネットを使えば全世界の人に発信できます。そうすると、地域の人たちから(仕事を)頼まれる量は少なくなっても、全世界を相手にすれば、どうですか。頼まれる量は遥かに多くなります。
私がフランスとドイツの中間、アルザス地方を旅してプチホテルに泊まったときのことです。紅茶を頼んだときに、出てきた紅茶入れは、何と山形県産の鉄瓶でした。どうして、その鉄瓶を知ったのだろうか。どうやら山形県があちこちに売り込んでいるらしいのです。そうすると、アルザスのホテルのオーナーは我々が今まで考えもつかなかった使い方をしているのです。こういう使い方もあるのかと感心した次第です。
地球環境を大切にする手仕事の天然素材
伝統工芸品を大切にするということは、地球環境を大切にすることでもあるのです。例えば、皆さんの中には、プラスチックで作った買い物かごなどを持っている方がいらっしゃると思います。プラスチック製品は処分するのが面倒です。そのへんに投げ捨てられると細かい破片になって、川に流れて海に至り、魚が食べてしまうと、だんだん海の生物が育たなくなってしまう。そうすると我々にも還ってくるのです。ですから安易にペットボトルなどを使うべきじゃないと思うんです。
伝統工芸品を大切にするということは、地球環境を大切にすることでもあるのです。例えば、皆さんの中には、プラスチックで作った買い物かごなどを持っている方がいらっしゃると思います。プラスチック製品は処分するのが面倒です。そのへんに投げ捨てられると細かい破片になって、川に流れて海に至り、魚が食べてしまうと、だんだん海の生物が育たなくなってしまう。そうすると我々にも還ってくるのです。ですから安易にペットボトルなどを使うべきじゃないと思うんです。
手仕事の品々を買う、使う。それが伝統の維持、継承につながる
私は、県に申し上げたいことがあります。手仕事会の皆さんは、栃木県が誇れるモノを作っています。そういうものを一堂に展示して、近くにそれらの作品、品物の販売・促進コーナーがあっても然るべきだと思うんです。また、海外から来られた方へのお土産に、手仕事会の人たちの作品も含めて伝統工芸品を使っていただきたいと思います。
では県民はどうしたらいいのか。手仕事、伝統工芸に携わる人たちが仕事を継承できる、その一番の肝腎要なのは何なのか。買うことです。使うことです。下野手仕事会の人たちの作品、品物が売れれば手仕事会の人たちは生活に困らないわけです。生活に困らない十分な暮らしができれば、自分の子どもに「後を継いだらどうだ」と言いますよ。多分、自ら継ごうと思うようになります。
一番の問題は経済的になかなか難しいところがあることです。それは皆さんが安易にペットボトルに行っちゃうから。どうしたらいいのか。目先のことだけじゃなくて、自分たち一人一人が地球環境も含めて日本的なものをどう後世に伝えたらいいかということに、積極的に意識を持って、それに参加しなくちゃいけない。伝統工芸の場合には簡単です。買えばいいんです。値は張ります。しかし使っていて味わいのある本当にいいものだったら子や孫に伝授できます。そういう生活になっていただければありがたいなと私は思うんです。
下野手仕事会集合写真
下野手仕事会 創立五十周年記念誌 販売中
書籍情報
・書籍名:下野手仕事会 創立五十周年
・発 行:下野手仕事会
・編 集:(有)アートセンターサカモト
・〒320-0012 栃木県宇都宮市山本1-7-17
・TEL : 028-621-7006 FAX : 028-621-7083
・ISBN 978-4-901165-37-2
・価格:2,200円(税込み)