世界の巨匠ミレーの栄光を背負って描き続けた人生
「落穂拾い」「晩鐘」「種まく人」等の数々の名作を描いた画家ジャン=フランソワ・ミレー。巨匠ミレーの直系の画家ダニエル・ミレーは、1929年、パリから60キロ南のフォンテンブローの森の近くのバルビゾン村で生まれた。「ミレーの6人目の子どもがシャルル・ミレー(建築家)で私の祖父です」
1943年、フランスはドイツの占領下にあった。ダニエルは15歳で、家族とパリのサン・ジェルマン・デ・プレに住んでいた。当事パリの流行の最先端地域であり、カフェはいつもサルトル、ボーヴォワール、グレコ等が行き来し、哲学者、文学者、アーティストたちが滞在していた。
「画家だった父はドイツ軍に連行され、50歳でドイツの収容所で亡くなりました。母はとてもショックを受け、悲哀と絶望の続く中で母は父の死後の約1ヶ月後に心臓麻痺で亡くなってしまったのです」
ジャン=フランソワ・ミレー作「落穂拾い」
ミレーから繋がる家族への愛
両親を失うというつらい戦時中をくぐりぬけてきたダニエルだが、結婚して長男クリスチャンと長女ヴェロニックの二人の子どもに恵まれた。その後は妻として母として、そして画家としての充実した生活を送ってきた。(現在は南仏ニースに在住)偉大なる画家ミレーの子孫である二人の子どもたちもまたアーティストである。
ミレーの作品で、女性が小さな男の子におしっこをさせている版画(「ほらほら気をつけて」1862年)がある。この男の子がダニエルの祖父であり女性は曾祖母であり、即ちミレーの奥さんである。バルビゾンの自然と農民たちを描き、家族を愛したといわれる画家の代表作のひとつである。
この村に、ミレーが多くの作品を描いて過ごした住まいとアトリエがある。現在はミレー記念館として保存されている。
「バルビゾンは私たちにとって原点です。2年前に、ミレー記念館で私と息子と娘の3人の絵画展を開催しました。曽祖父ミレーから繋がる家族愛の集大成です」
ミレー記念館にてミレー家族展開催
日仏の「人間と文化」の交流に貢献
ダニエルは「日仏ミレー友好協会」フランス本部名誉会長として、長年絵画を通してフランスと日本の文化交流のために尽力を注いできた。毎回、パリ東のヴァンセンヌの市庁舎での展示会とセレモ二ーのために、ニースからTGV(新幹線)で7時間かけてパリに赴く。フランス芸術文化協会より金メダルも授与されている。
「今年は曽祖父ミレーが生まれた近くのノルマンディ-の海にある黒花崗岩で造られた灯台を描きました(「ノルマンディー島の灯台」)」。ミレー友好協会名誉会長として何度も日本を訪れ、大阪、名古屋、愛知の各美術館をはじめ各地に招待されている。
「日本人の細やかなおもてなしは素晴らしい。美しい町並みや日本の自然を心から堪能し、そして毎回、感激しています。何よりも日本の多くの方々が曽祖父ミレーをとても良く知っていて、彼の作品をとても大切に思ってくださることが、私にとって最高の喜びです」。
ミレーのDNAを受け継ぐものとしてダニエルのフランスと日本の「人間と文化」の交流への貢献は多大である。
ミレー友好協会フランス本部で、挨拶をするダニエル・ミレー
人生を楽しみ、自然と海に囲まれて生きる
さまざまな苦労を重ねながらも描き続けてきた不屈の精神が表れている顔と、がっしりとした骨格の身体であるダニエルの存在感は、周囲の人々を圧倒させる。同時に脈々と流れてきたミレーからの「人と自然」に対する温かい思いが周囲を深く感動させる。(ちなみに息子クリスチャンの顔の骨格が、ミレーによく似ているといわれている)
「私が大事に思うことの1番目は自然。2番目が太陽。3番目が人生を楽しむこと、人が大好きですから」と華やかな笑みを浮かべて話すダニエル。これは大多数のフランス人の意見をほぼ代表していることでもある。
「私の性格は開放的で完全に南仏人。人生を楽しみ、自然と海に囲まれて生きることがベスト」と語る円熟した83歳の女性ダニエル。世界の巨匠ミレーの栄光を背負って描き続けた人生は「まだまだこれから」と。
ジャン=フランソワ・ミレーの末裔であるダニエル・ミレーの作品のコレクターは、主にフランス、アメリカ、カナダ、日本等が多いが、さらに世界へと広がっているという。
ダニエル・ミレーの作品
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)