アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.15

「メゾン・アトリエ・フジタ(藤田嗣治)」研究学芸員・責任者-Anne Le Diberder【アンヌ・ル・ディベルデール】-

日本作家への精神的関わり

RER(郊外線)に乗り途中バスを利用してやっと着いた小さな村。パリから南方30キロにあるエッソンヌ県のヴィリエ・ル・バークル村である。ここに藤田嗣治が生涯を終えた家屋があった。以前から知ってはいたが、なかなか訪ねる機会がなかったが、この夏にフランス人の知人を介して、藤田の研究学芸員である「メゾン・アトリエ・フジタ」の責任者アンヌ・ル・ディベルデール学芸員に取材することができた。

彼女はイル・デュ・フランスの文化遺産保存会長であり、エッソンヌ県議会議員である。昨年、国より芸術文化に貢献した功績によりレジィオン・ド・ヌール・シュヴァリエ賞を受賞している。

彼女の案内でメゾン・アトリエ・フジタに入るとそこは時を越えた藤田の芸術的感性そのままの生活空間が保存されていた。1991年に修理復興され一般公開された。

「なぜ、フジタの研究を?」という私の質問に彼女の日本への憧憬に似た感情がほとばしる。

「若い頃からとても興味をもって、日本の本をたくさん読んでいました。例えば、カワバタ(川端康成)、ミシマ(三島由紀夫)、タニザキ(谷崎潤一郎)、ナツメ(夏目漱石)などですが、中でもフジタ(藤田嗣治)の生き方や作品のマチエールに強い興味を持ちました。つまり最初は精神的な関わりから入っていったのです。しかし、日本の文学者より画家への関心が強かったのは、私が絵画の修復を研究している事にも深く関わっていることでもあります」

メゾン・アトリエ・フジタ

取材中のアンヌ(左)とトモコ

日本とフランスの間で

アンヌはフジタに関する仕事の関係で日本に8回ほどフランス国の代表として行っている。「2004年に初めて日本に行きました。成田から北海道に行った時、とてもショックを受けたことがありました」

その日は北海道でも日差しが強く、暑い日であった。「すみません。本当にごめんなさい。暑くて」と、日本の受け入れ側の担当者のことばを、通訳を通して聞いた時だった。天候、気候に関して担当者が一生懸命謝ったことに驚いた。気候のことまで相手に対して謝らなければならない日本人の礼儀にショックを受けたのである。

しかし、私は、担当者はほんの軽い気持ちで儀礼的に言っていることが分かるが、彼女はまともに受け取ってしまったのである。私は両方のメンタリティーがわかるので思わず笑ってしまった。

「日本人は礼儀正しく、フランス人の様に大雑把ではない。やはり凛としたサムライ、芸者に代表されるように美と賢さを兼ね備えています」というアンヌのことばに、日本とフランスの言語の微妙な言い回しや日本人とフランス人の計り知れない溝のようなものがあることを、約40年滞在している私(トモコ・オベールはフランス国籍)も、いつも感じずにはいられない。後にカトリックの洗礼を受け「レオナール・フジタ」となってフランスに死した藤田嗣治も、さぞかし両極で揺れていたことであろう。

フジタのサロン(2階)

フジタの寝室。フジタが着ていた甚平がある

日本のフジタを世界に広める

晩年のフジタは性格的に非常に気難しく、あれだけ放蕩を尽くしたのは、戦争を挟んで自分の人生が壊されたこが一因しているといわれている。この不便な小さな村にフジタは逃げて来たのかも知れない。

「そうです、年齢的なこともありますし、作品に集中するために人里離れた所を選んだのです」

フジタの作品修復は難しいといわれているが、「2011年に判明したのですが、あの裸婦の乳白色が、和光堂のシッカロールを混入していたのです。作品を、あなたも知っているように、描いた方を外側にして巻くでしょう、しかも大きな作品を彼は内側に巻いていたので、ぼろぼろに剥げ落ちてました。

「来年は東京芸大に行って、そこに残されている未発表の資料や日記のために訪れます」。パリ生まれのアンヌは、文筆家の父とオルガニストの母の影響で、感性豊かに育った。

「若い頃はよく絵やイラストを描きました。特にゴッホの繊細な感性と作品が好きでしたが、アートの歴史を学ぶ道を選びました」

パリ大学第4学部(ソルボンヌ)で中世文化史とイコンアートの教授資格取得し、エコール・ルーヴルで美術館学の資格取得している。目的を達成するために、さまざまな専門分野の知識へと進展させていった。聡明さと世界を舞台にして動くエネルギーを持ち、好奇心と自分の興味のある学問が一致し、若くして現在の責任ある立場となった。

「近いうち上海と北京の美大で‘20世紀初頭のパリと芸術創作’の講演会があるので行かなければならない」と、アンヌ・ル・ディベルデールは、日本の「フジタ」を広める役割を担って各国を飛び回る。日本にとっても貴重な存在のフランス人のひとりである。

3階のアトリエ、ランスの教会の試作品の前で

ランスの教会の試作品

手前はランスの教会の模型

パンフレット

キッチンのタイル(1階)真ん中の4枚はフジタの作品

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。