アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.17

「キュリー博物館」館長-Renaud Huynh【ルノー・ウィンヌ】-

フランス国に生きる外国人

30年ほど前に私(Tomoko)はキュリ-博物館を訪ねたことがあった。当時は内部は薄暗く、私の感性の何かを刺激する古い実験室の雰囲気に感激した覚えがある。

今年の9月に展示室はリニューアルされ、説明パネルや写真がセンス良く整理されてとても良い博物館となった。当時をより鮮明に理解することができるように旧実験室も保存されて公開している。これはパリ5区の文教地区にあり、近くにはキュリー物理大学、キュリー病院、そして通りの名前は夫の名前「ピエール・キュリー」と彼女の名前「マリ」から「ピエール・マリ・キュリー」(*1)通り と名付けられている。

多忙な中を館長であるルノー・ウインヌ氏は、休館日である月曜日に展示室でのインタビューに時間を割いてくれた。穏やかで自信に満ちた雰囲気から、さまざまな多くの素晴らしい人々との出会いと経験が滲み出ていた。

彼は1969年にマダガスカル島(アフリカ)生まれ。両親はヴェトナム人で、お父さんはフランスの高級官吏公務員として勤務していた。かつてこの島はフランスの植民地だった。

「両親の仕事上、幾つかの国をめぐりましたが、15歳からパリに在住しています。生まれた時からフランス語で育ちフランス国の教育を受けフランス人として現在に至っています」と話す。しかし、人の心を察することのできるアジア人特有の神経の細やかさが見られる。これはヴェトナム人としての根っこが、見えない奥底にあるのだろうかと、フランス国籍を持ちパリに生きる日本人の私は、それこそ察するのである。

ウインヌ氏はピエール・マリ・キュリー大学でさまざまな専門分野の勉強し、特に海洋学、ヤリイカの研究をしていた。

「私はクストー(*2)のような人になりたかったし、自然と海に関する生物学の仕事がしたかったのです。しかし、その後『美術館学』を学び資格をとり、大きく進路を変えたのです。人々に接し、公演をしたり、本を書いたりしました。1999年にキュリー博物館で働く要請があり、2007年に館長に任命されました。展示全般に関する事をはじめ、旧実験室の扱いなど、専門家の意見を聞き、膨大な本や書類から学ぶ事ができました。彼女に関する未発表の6000枚に及ぶ写真、研究資料があります。写真の彼女の顔は冷たい感じですが、これは公に出すための顔で、実際はもっとくだけていたと思います。特に、旧実験器具及び機械には大変興味深く、自分の本当にやりたい事がここで見つかったと思いました」

彼の言葉通り博物館の充実した貴重な仕事を担っているが、館長として博物館の資金面の調整や人間関係など山のような仕事に終われる日々であるという。

「仕事の関係でヨーロッパ中行きますが、特にアフリカに行くとほっとして故郷に帰ったような気持ちになりますね。アフリカの人々の生活は貧しいですが、生き方考え方はとても豊かなのです。今のフランス人は、他の人々を思う心を失い無視している人々が多いのが悲しいですね」

ちなみに、マリ・キュリーは命懸けで行った研究と実験の戦いの他に、彼女が最後まで戦ったことは、この国で、自分が外国人であること、女であることであった。現在よりも人種差別・女性蔑視の強い時代に、命を懸けて研究に没頭し、耐え続けて努力を重ねて成果をあげていたという。

1)マリ・キュリ-(マリア・スクウォドフスカ=キューリー/1934年フランスで没)1867年ポーランドのワルシャワ生まれ。パリで学び研究の生涯を送る。放射線の研究で1903年のノ-ベル物理学賞を夫のピエール・キューリーと共に受賞、同時にウランの放射線を発見した、フランスの物理学者アンリ・ベクレルも受賞。彼女はラジウム及びポロニウム (祖国ポーランドに敬意)の発見とラジウムの性質及びその化合物の研究で、1911年のノ-ベル科学賞を受賞。その時ラジウム放射能の国際基準を定義され、「キュリー 記号 Ci」と名付けられた。パリ大学初の女性教授。放射能(radioactivity)という用語は彼女の発案。長女イレーヌは1935年に夫のフレデリック・ジョリオ=キューリーと共にノ-ベル物理学賞受賞。

2)ジャック=イヴ・クストー(1910-1977)フランスの海洋学者。水中考古学者。アクアラングの発明者の一人。1959年海の国連と呼ばれる世界水中連盟CMASを創設。 1992年の地球サミットで環境破壊・海洋汚染を警告し、母国フランスの核実験再開を激しく批判した。

キュリー博物館の裏のバルコニーで。マリ・キュリーの写真とウインヌ氏と筆者

キュリーの家族(4人で5つのノーベル賞を受賞)の写真の前で

敵は見えない

単純素朴な質問であるが、「なぜマリー・キュリーはこのような大変苦労する実験に夢中になれたのか」と訊ねると彼はニコニコしながら答えた。

「それは彼女は実験が大好きだったからです。つまり実験に恋をしたのです」と。最もストレートで真実な答えにうなずけた。「好きな事は一生かけて、夢中になれる」ということであった。

「夫のピエールも自分自身を人体実験し、病気(主に癌)の治療になるのではないかと命をかけて研究をしていました。当時としては2人とも先進的な考えを持っていました。現在もキュリー研究室や大学では癌に対する研究とその貢献がとても大きいのです。国と市民の寄付で研究は支えられています」

昨年はマリー・キュリーノーベル賞受賞100年記念のイベントがいくつも行われた。「大変でした。その上ミューゼの改築工事の重なって心身共に消耗しましたよ。日本も含めて、各国では彼女の伝記の映画化はされたのに、フランスではありませんでしたので、初めて映画も製作しました」

また、日本の3.11の震災原発事故以降は、各国からの問い合わせや取材に追われていたという。「先日も日本の放送局NHKが取材に来ました。また、名古屋大学と提携して放射能対策について協議しています。日本の人々に放射能に対する十分な説明と正しい教育が行えることを求めます」

私はポーランドでのシンポジウムに招待されたときに、北ポーランドの森で他の作家とキノコ採りをした。チェルノヴィリの原発事故のことはすっかり抜けて食べてしまったことを思い出した。

「そうなんです。敵は見えないので、闘うのがとても難しいのです」と、放射能に関することを長時間にわたって話してくれた。

マリー・キュリーはノーベル物理学賞授賞式の席上で「ラジウムは犯罪者の手に渡たれば、きわめて危険になります…。私は、人類がこの新しい発見から害よりも一層多くの善を導き出すであろうことを信じる者の一人です…」と語ったという。

フランスラジオ局で。左からウィンヌ氏、キュリーの孫エレーヌ(イレーヌの娘/原子核物理学者)とフランスの原子核物理学者

旧実験室内

アメリカ大統領からラジウムを贈呈されて運んだときの箱

旧実験室内

博物館内

娘イレーヌとマダム・キュリー

ピエールとマリ・キュリー

博物館内

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。