アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.18

パリ大学神経生物学研究室教授・生物学博士-Jean-Marc Jallon【ジャン=マルク・ジャロン】-

日本との出会い

「約40年前、私は研究のために日本に行きました。そこで岩坪源洋氏(故人/当時、大阪大学医学部準教授)や多くの素晴らしい日本人に出会い、私の一生は日本と日本人によって決定されたのです」

ジャン=マルク・ジャロン博士の穏やかな話し方と優しい眼差しは、日本への愛着があふれ出ていた。「岩坪氏は35年前にフランスで51歳の若さで亡くなりました。私を息子のように可愛がってくれましたね。私はその後も時々奥様と電話を通じて話をしていましたが、奥様も2年前に亡くなりました」

博士は1974年に東京大学大学院に国費留学して以来、年に1回以上は来日している。「もう40回以上日本に行っています。神経生物学の分野では、あの当時そして現在も、アメリカと日本の研究は最先端をいっているからです」

1945年、パリでブルジョワの家庭に一人っ子として生まれた。両親と祖父母に大切に育てられたという。5歳で彼の行くべき最高峰の学問の道が決定された。10歳から英語を学び、ロンドンに毎年語学の勉強のために行かされていた。13歳でドイツ語を学びはじめ、やはり同様にドイツにも行かされていた。語学をはじめ、学校の成績はいつも一番であった。そして日本語もロシア語も達者である。

「フランス語はもちろんですが、英語、ドイツ語、ロシア語、日本語など、会話の相手に聞かれた言語で私は答えるようにしています」。1965年に初めて中国に行き、中国からロシア、モロッコを回ったことなどの旅行の話を、実に楽しそうに語る。私(トモコ)がフランス語で問うとフランス語で答え、日本語で問うとみごとな日本語で答える。

「はじめての中国はとても印象的でした。仕事をはじめ旅行でヨーロッパ中を知ることになりますが、それは、いろいろな国の歴史や文化に直接触れることができますし、何よりも人間を直接知るための良い方法です。しかしフランスよりもどの国よりも僕が良く理解していると思うのは日本です。北海道から沖縄まで日本全国を訪ね歩きました。幾つかの大学で、研究や講演会も行いました」。彼は物理学の分野でも重要な道を開いていた。

大島で(ジャン・マルク博士1977年)

松山大学にて。実験培養器具の前で。(1985年)

「人間」の解明

「私はまるでアンファン ガテ(enfant gâtè・甘やかされた子供)のように過ごしてきたと思っています。今まで、大きなアパルトマンをはじめ経済的なことは家族がすべて心配してくれました。しかし、子ども時代は他の子どもたちとの交流は許されませんでした」

博士の生い立ちを聞いていると、フランスのかつての王侯貴族の子弟教育が偲ばれる。まるで、生まれたときからココン(cocon・繭)の中でゆったりしていて、揺りかごに揺られながら、自分の好きな事をしているという貴族の暮らしのように。「そうです、まさにココンの中ですね」

現在、博士は生化学国際連合の会長であり、オーガナイザーである。2004年から北京で総会が開催され、その都度、英語での公演を準備しているという。2012年はイスラエルで、2016年は沖縄で開催される予定である。

「私は、最初は科学を専攻しました。しかし、手先の器用さを必要とする細かいテクニックが苦手なので、生物学のほうに転向しました」。将来を嘱望された優秀な学生だっただけに何とか留まるように説得された。「歴史や人間そのものにもっと興味があったので、チェンジして良かったと思っています」

生物学は動物の細胞分子を使うが、博士は、長年ショウジョウバエを利用して研究をしている。「それは最終的には『人間(という動物)』の解明です。私は自分の研究の宣伝はあまりしませんが、素晴らしい日本人の専門家との交流があるので、発見は伝わってお互いにさらに良い研究ができるのです。ハエの遺伝子(DNA)や、いくつもの物理学のシステムの近代化等を私は作り出し、実際に使用できるようにしてきました。東京大学、筑波大学、京都大学等の大学院をはじめ、他の大学の大学院の優秀な人たちは私との交流をとても喜んでくれています」

筑波大学研究室で(1987年)

北京の学会で講演する博士(2012年)

愛する日本を憂う

博士が他の研究者より先行する研究をしながら、自らの研究を他者が利用できるようにするのはヒューマニズムから?

「いや、そんな事ないですよ。日本の研究室では以前からハエに興味を持っていて、私の研究と一致する所があります。やはり日・米は虫の研究に強いです。ハエを含めた虫類は遺伝子の研究に飛躍的な発展と進歩を与えました。私はその研究のための幾つもの近代化のシステムを作ったのです」

彼はノーベル物理学賞に値する研究と成果を出しているが、今年は候補者名にはなかった。彼はそのような賞の事などは無頓着で何の興味もないようである。子どもが無心に好きな遊びを楽しんでいる姿と重なる。

「それにしても、今回の日本の衆議院選挙にはがっかりしました。日本人は優秀なのに政治はどうしてこんなにまずいのか。震災のこと、原発のことをはじめ、大事な課題があります。私は日本の将来が心配です」。愛する日本に対して心から憂い、憂鬱な顔を表した。「日本は無政府でやった方が旨くいくと思う」と、フランス人らしい皮肉も一言。

「今後はアジアの時代になりますね。私なりに自分の専門分野で、できるかぎりのサポートを続けていきたいと思っています」

ジャン=マルク・ジャロン博士と筆者トモコ・K・オベール

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。