柔道一筋
いつもの様に柔和な顔で子どもたちの柔道の指導をしている柔道家アンリー。私の息子の柔道指導者でもある彼に久しぶりに会った。ここは11区にあるパリ市のスポーツセンターで、プールやスポーツ施設があり子どもも大人も少しの年間費で利用できる。同様の施設が各区にある。柔道場は30畳程あり、その周りも赤い畳が敷いてある。
アンリ-は長年柔道の指導をしている。「ハジメ、ソレマデ」などの日本語の国際柔道用語が聞こえる。フランスでは柔道がとても盛んで、日本の2.5倍の世界でも高い柔道人口といわれている。人々の関心も高くTVで国内外の試合を放映する。
「1953年に父と一緒に試合を見に行き“柔道”というものを初めて見てショックを受けました。同時にとても感激して僕もやりたいと思いました。翌年、15歳で試合に勝ったら続けさせることを条件に習い始めました。18歳で黒帯を取ってから60年間が過ぎました」
彼はフランス国の現在までのチャンピオンの五指に入っている程、数々の優勝経歴を持っている。18歳以前に例外で大人のクラスで試合して優勝したこともあった。
彼の柔道に関する話は止めどもなく出てくる。まさに柔道にほれ込んで、好きで好きで止められないという思いにあふれていた。柔道を愛し柔道一筋の幸せな人生を送っている人の話を聞くだけで、私も暖かく包まれた感じになった。
アンリー(中央)と息子のケビンヌ(右)とトモコの息子ミシェル(左)
トモコとアンリー(中央)とトモコの息子ミシェル
素晴らしい日本の柔道家との出会い
感受性豊かな若い時代に、彼は当時世界有数な日本の柔道家に出会っていたのだった。
「川石酒造之助(かわいし みきのすけ)、三船久蔵(みふね きゅうぞう)、醍醐敏郎(だいご としろう)等の素晴らしい柔道家だった」
普段からお喋りのフランス人が、自分に多大な影響を与えた尊敬する人物の話には、情熱的になり、雄弁になる。
「ヨーロッパとアフリカで約5年間フランスチームの一員としてたくさんの試合を経験しました。僕の師匠は醍醐敏郎です。本当に素晴らしい柔道家でした。確か87、8歳で、ご存命です」
アンリーはその後指導者の資格を取り、指導や試合の参加プロジェクトを組んで指導者としての力を発揮している。ここまで続けるための秘訣は?と問うと「食事も特に気をつけていないので、何でも食べます。しかし、両親とも丈夫な身体、強い身体でしたね。また、タバコは吸いませんし、強いアルコールは飲みません。続いたことの要はやはり『柔道が好き』ということです」
35歳くらいのとき上腕筋肉を鍛えていた時期に、あの分厚い柔道着がはじけて切れてしまったこともあったそうだ。
「昔は良いキモノ(柔道着)がパリでは手に入らず、いつも日本から4ヶ月かけて船便で送ってもらっていました。ですから、いつも日本のキモノを着て試合に臨みました。試合に間に合うかどうかヒヤヒヤしたことがありましたよ」
そして、ちょうど今(取材は2013年2月)、「グランドスラム・パリ*」という国際柔道大会が行われていること、それはパリ、モスクワ、リオデジャネイロ、東京で行われるということを説明してくれた。
グランドスラム・パリ2013 2013年2月9日から10日の2日間にわたって、パリのベルシー体育館で開催された。2009年、各階級で誰がどのくらいの力があるのかを示し、柔道を見る人により分りやすくするために世界ランキング制が導入。これに伴いIJF(国際柔道連盟)主催のワールドツアーが作られた。そのツアー各大会の中でも「グランドスラム」は年間4大会(パリ、モスクワ、リオデジャネイロ、東京で開催)行われるツアー最高グレードの大会として位置づけられている。「グランドスラム東京2012」は日本で行われる唯一の国際大会であり、ロンドン五輪以後の、最初の大きな個人戦国際大会であった。
道場で(後列中央がアンリー)
熱心に指導するアンリー
一人の日本人柔道家のアイディアから
今回のインタヴューは私は日本人でありながら柔道の事は全く知らず、素人の質問をし初めて聞く話がたくさんあった。そのひとつにフランスの柔道の帯は七色であり、それはフランス人が考えたことと思っていた。
「違いますよ、川石酒造之助が、戦後、フランス人の指導を効果的にする方法を考えて作り出したのです。その後、めきめき効果が出て、日本以外世界中でこのカワイシメソッドが普及したのです。戦前は全然流行らなかったのですが、この方法で、戦後パリで柔道が大流行したのです。カワイシメソッドとは、帯の色を7色にして段を明確にし、成果をわかり易くするために、白から始め、黄色、オレンジ、緑、ブルー、茶、黒の色別にしたのです。彼は『フランス柔道の父』と呼ばれています」
子どもたちには、時々、白と黄や黄とオレンジの市松模様の中間の段も見られる。こうすれば次の段階に行くための目安や努力がはっきり見えるので、合理的なヨーロッパ人は納得できるという。
今フランス人の柔道家が伸びているのは、やはり67年前の日本人の良い種まきと、フランス人の努力の結果である。彼と話しているとふっと「昔の日本の良き時代」の礼儀正しい日本人のように思える。
「残念なのは加齢による体の衰えで柔道ができなくなることです。死後も柔道をやりたいと思っていますよ」と。彼はもうすぐ75歳、黒帯の5段である。
「これまでも、150kgのバーベルを右肩に落とし、半身不随になったり、両脇の肋骨に支えのメタルを埋め込んだり、腰骨を痛めたり、捻挫、骨折、と満身傷だらけですけど、早くタタミに戻りたくてなぜか回復し、畳を踏んでいますよ」と大声で笑う。
「今、フランス人の選手も審判員もとても優秀です。最近ルールの変化があり、昔の柔道に戻っています。それは、品のいいスポーツが段々野蛮になり、柔道のきちんとした“形”から外れてしまったのを、本来の柔道に戻したのです。これはとても良いことです」と安堵した顔で話す。
彼が最も尊敬する柔道家「柔道の父」「日本の体育の父」と呼ばれている嘉納治五郎の写真が道場に飾ってあった。私が幼い息子を連れて道場に通っていた頃、写真の人物の説明を熱心にしてくれたことを思い出した。
24歳の頃のアンリー
アビュジャン(アフリカのアイヴォリー・コーストの首都)大会で優勝
アンリー4歳、いとこのコミュニオン(カトリック)のお祝いに天使の衣装で
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)