陽の没する地の王国
パリで暮らしていて地中海文明・文化が「いかにヨ-ロッパに重要な影響を及ぼしたか!」が、否が応でも感じられる。地中海の周りの国名だけでも、スペイン、フランス、イタリア、アルバニア、ギリシア、トルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、そして島国のキプロス、マルタ、サルディニア。これらの国々は、過去において戦争や貿易等を通して、決して知らない仲ではないということである。この中の一番西「陽の没する地の王国」の意味する国がモロッコである。
今回、モロッコ出身パリ在住の総合芸術家ナイマ・アマリを取材。パリ16区の凱旋門近辺の彼女のアパルトマンに訪ねた。
1962年、南西モロッコのアガディ-ル大地震があり、家屋の崩壊と一万人以上の死者を出した惨事があった。首都のラバトに在住していたナイマ・アマリの父は、政府の仕事である都市の建設や治安維持の総責任者としてアガディールに派遣された。65年にナイマはこのアガディ-ルに生まれた。4年後、再び家族はラバトに戻り彼女は20歳までこの地で教育を受け、美術大学入学資格試験に合格した。
モロッコの公用語はアラビア語とベルベル語だが20世紀前半フランス植民地の影響で(1956年独立)フランス語が第2言語となっている。
ナイマ・アマリ。作品の前で
パリ・凱旋門
世界の都市パリで
89年、彼女はフランスに行き、南部の国立モンペリエ・ポ-ル・ヴァレリー大学(*)の美術学部で学んだ。90年、国立モンペリエ美術大学で資格をとり、92年にさらに上級資格を取得。93年パリ8大学にて資格取得、95年同大学で美術教師資格取得、97年博士課程へ。パリ第8大学は映画製作やシナリオ等の高等専門分野への資格を取得する大学である。彼女はここで学生を指導をしたり、自分のプロジェクトを進めたりしている。
「8人兄弟でしたが、自由で解放的な両親でした。アートを目指したのは小さい時からで、生涯にわたり自由の精神を保つためには創作活動しかないと思いました」モロッコではハイソサエティのファミリーのなかで何不自由なく育ったようだ。
「モンペリエを選んだのはモロッコから近いし、太陽と海があるから。パリへの足がかりとするために、まずここで勉強し資格を取りました。でもモンペリエに来た時には、なんて寒いところだろうと震えていましたよ。パリでの学生生活が始まった時、パリの素晴らしさに感激しました。たくさんの学校や美術館に圧倒されました。そしてボー・ギャルソン(ハンサム・ボーイ)もたくさんいたし(笑)。やはりプロヴァンスから比べたらここは世界の都市ですから」
モンペリエ大学はフランスの大学としては屈指の歴史を誇り、とりわけ医学部はヨ-ロッパ最古。ノストラダムスはこの医学部で学んだ。
installation-1990-2000
peintures-2001
Peintures-2005
Peintures-2008
ニューアートの始まりに
長い間創作芸術を学び作品を発表している彼女に「本当に目指している物は何か?」と、心のうちを聞いてみた。
「それは音楽、ダンス、映像などをミックスしたスペクタクルを作ろうとしています。今までやってきたような絵画を壁に飾るだけではなく、立体的総合的な空間芸術を目指しています。それには広い場所の確保や資金面の問題もあるので、とても難しい作業です」
「20年前からミックストメディア(絵画、版画、彫刻、写真、映画、ビデオ等の併用)を手がけていますが、当時はコンピュ-ターで作品をつくることが珍しいときでした。機械も大きくて重くて数も限られており、私達は一握りのコンピュ-ターアーティストの学生でした。アメリカがその最先端をいっていました」
「93年にリヨンで初めて公にミュルティメディア(映像を中心とした総合ア―ト)のExpoが開かれました。それはニューアートであるアート・テクニックの始まりでした。私はビル・ヴィオラ(ビデオ・アート・ジャンルを代表する有名なアメリカのアーティスト)の作品が好きですが、彼以降もどんどん新しい試みが生まれています」と堰を切ったように、目指すアートの一端を語った。
今回、彼女は私(Tomoko)と共に日本の大阪にあるミレ―友好協会(代表作「落穂ひろい」のJ.F.ミレーの末裔が名誉会長。Tomokoはパリ本部事務局長)に招待され初めて日本に行く。
「とても嬉しい。和食や緑茶も好きですしパリには美味しい日本レストランがありますのでよく食べに行きます。日本庭園は哲学的で大変興味があります。例えば水、石の配置など、ノ―トル・モンド(別世界)です。これは日本人の精神構造を外に現しているものと思います。西洋とは違うオリエンタルの思考からきているので、日本とモロッコの精神は近いものがあります。アジアの友人もおり、とてもよく分かります。そうそう着物もステキですよね」
先ほどの創作過程の説明とは打って変わって、まだ見ぬ日本への甘い想いを語ってくれた。
2004年、モナコでのグループ展。左端がナイマ、左から二番目がナイマの美術史の教授でパスカル・ブナフ氏、右から二番目がモナコ公国の公女カロリーヌ・モナコ妃、右端は画家のボテー氏
カロリーヌ・モナコ妃に絵の説明をするナイマ
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)