自転車のパリジェンヌ
映画監督ジョエル・ノヴィックとバスティーユ広場のカフェで待ち合わせた。秋のバスティーユ広場は落ち着いた陽がさして、カフェに隣接するオペラ・バスティーユは一層美しく輝いて見える。パリ12区にあるこの広場は1789年のフランス革命(*1)の発端ともいえる場所で、広場の中央にフランス7月革命(1830年)記念柱が立っている。
軽やかな色合いの服装で自転車に乗って来たマダムがジョエル・ノヴィックであった。
「自転車はずーっと前から?」「そうね、10代からよく乗っていました。フランス中くまなく行きました。パリからベルギー、オランダ、デンマークやアイルランドまで、列車や船を乗り継ぎながら自転車旅行をしました」
「自転車は自由を経験させますし、何処にでも行ける。第一安上がりでしょう(笑)。そして人との接触が容易ですし、この自転車も長く愛用しています」
日本の事情は良くわからないが、パリで自転車に乗っている人たちは、はっきり言ってナウな人たちが多い。それは乗っている人を全面的に見せているし、自信のある精神的に豊かな人たちとして見える。自転車もスマートでファッション化している。昔自転車は貴族の遊び心の乗り物だった。
2007年より環境と交通渋滞等の問題の解決策としてパリ市運営のレンタルサイクルVelib(ヴェリブ)が街中にあり、車も同様のシステムができた。
「昔と違って車は多いし、若者の無謀自転車もあるので、ヒヤヒヤします」と。取材は自転車談義からはじまり、それによって彼女のおおらかで自由で意志の強い人柄が垣間見られた。
バスティーユの塔とオペラ座
バスティーユ広場に自転車で
ジョエル(左)とトモコ
フランソワー・トリュフォーにひかれて
「若い時に映画監督の仕事を選びましたが、それは単純に映画が好きだったからです。特にフランソワー・トリュフォー(*2)から強く影響を受けました。最初はテレビ局で仕事をしていました。これは経済的なことで生活のためのサラリーでしたが、いろいろな方向からさまざまなことを学ぶことができました。私には全く興味のない「パリ・モード」というモード関係のTV放送でしたが、この企画の責任者として、カメラ・ワーク、スタッフ、予算などを総合的に映画に近い仕事として学ぶことができたのです。力が試され勉強になりましたね」
遠くを見つめるような、落ち着いた声と丁寧に言葉を選ぶパリジェンヌ独特の雰囲気があり、パリに住んでいる外国人に多くみられる強い自己主張は微塵も感じられなかった。
「映画製作で難しいと思うことですか?それは全て創作する人に共通することですが、やはり「アイディア」です。そして、それを人々に納得させることです。クラシックでリスクを取らず、工場生産のようなCM的なモノに陥らないように、おかしなものを作らないようにしています。結構それに流されてしまう人が多いのです。私は山や崖を登るように手と足をがっちり四方向に掛けて、一歩一歩上って行くようにしています」
フランスは映画文化の発祥の地でもある。世界中から映画の勉強のために若い人たちが押し寄せ、映画学校も何校もある。彼女の言葉はそれらの若者に向けての良いアドバイスである。
写真撮影するジョエル
自由を愛し、人への興味がつきない映画監督
ジョエルの監督した代表的な3作品(INJAMプロダクション製作)を観てみると、人間の生き方が淡々と描かれている。「戦争と家族」がテーマのドキュメント映画である。
1つは『Passeports pour Vittel(ヴィテルのためのパスポート)』。自分の家族、特に彼女の祖父とヴィテルという町を撮った。東フランスの町ヴィテルは「水」や保養地で有名である。1941-1944年までドイツ占領軍によるアメリカ人、イギリス人、そしてユダヤ人の収容所があり、多くのユダヤ人がこの町からポーランドのアウシュビッツに送られ二度と帰ることはなかった。
2つめの作品は『L'école du voyage(旅の学校)』。パリ郊外のトレーラー・ハウスに住むノマード(ジプシー、マヌッシュ等移動民族)の子どもたちに読み書きを教えている人を追っているドキュメンタリーである。
3つめは『Journal d'un médecin dans les tranchées(壕の中での従軍医の日記)』。1914年の第一次大戦でドイツとの戦いに参加していた医者の日記とデッサンの冊子を、ジョエルは偶然に図書館で見つけた。一人の従軍医の眼から見た戦いの記録であった。「単に自分の戦場での出来事を自分のために綴っただけであったのですが」と、彼女は付け加えた。「この医者の曾孫が曾おじいさんの記録を基にした映画を観て、とても感動してくれました」 写真家でもあるジョエルの作品に日本人を撮った写真が何枚かあった。
「約10年ほど前、シャン・ド・マルス(エッフェル塔の後ろの広場)で日本特別年があり、侍姿や着物姿の女性がきていたのです。日本は行ったことがありませんが、日本語が分からないから是非行って見たいですね。知らない国、知らない言葉の場所は私を自由にします。そう思いませんか?私は、香港、広東、上海、北京などに行きました。そしてインドへ。イスラエルのキブツにも1年半滞在しました」
しかしパリを生活の基盤とするジョエル・ノヴィック監督にとって、パリは「最も愛する町」であるという。「人に興味がありますから。こうしてカフェで人々を見ているだけでも面白いのです」「次の作品ですか?たぶん肖像画風になるでしょう」とニッコリ。
彼女の映画製作は「自由」と「人」への限りない「興味」が原点となっているようだ。
1)1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱が発生し、第三身分(平民)による国民議会(憲法制定国民議会)が発足、革命の進展とともに王政と封建制度は崩壊した。
2)フランソワ・トリュフォー(1932-1984)フランスのヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督。作品『大人は判ってくれない』『勝手にしゃがれ』等。
『Passeports pour Vittel(ヴィテルのためのパスポート)』
『L'école du voyage(旅の学校)』
『Journal d'un médecin dans les tranchées(壕の中での従軍医の日記)』
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)