人生を変えたゴッホとの出会い
「37歳の時、自動車事故に遭ったのが、オーヴェルジュ・ラヴォー(ラヴォー亭)の近くだったのです。病院に入院してリハビリをしていましたが、その時にラヴォー亭がゴッホの終焉の地だったのを知ったのです」
現在「ヴァン・ゴッホ研究所」所長を務めるドミニック-シャルル・ジャンセン氏は当時を振り返りながら、「ヴァンサン・ヴァン・ゴッホ(ヴァンの意味はオランダ語の前置詞で何々家の出身の意味、ヴァンサンが名前)」との出会いを語り始めた。
「入院やリハビリで仕事を休んでいた間、ゴッホの書簡集を読みあさり心が激しく揺さぶられました。ピンときたのです。それは私も彼と同郷に近かったこともあります。事故に遭うまではゴッホの絵や人生には特別には興味などなかったのが、事故を契機にゴッホの生き方に出会い、私の人生を全く変えてしまったのです」
彼は北西ベルギーのブルージュで生まれ育った。23歳でフランスで仕事をするために移住。ダノン社(ヨーグルト、ミネラルウォーター、ビスケットなどを生産する世界的なフランスの会社)に25年間勤務。各営業の責任者としての地位を保持していた。
現在、彼はラヴォー亭を含め、周囲5棟の建造物のオーナである。世界中から大金を持つゴッホ愛好の投資家が買い求めてきた「ラヴォー亭」であった。しかし「ゴッホの精神と建造物の保存と維持」という旧オーナーとフランス国家の質の高い難しい条件を満たし、選ばれたのがジャンセン氏だった。
私は過去3回ラヴォー亭まで車で来ているが、今回の取材では、テオが危篤の兄ヴァンサンに会うためパリの北駅から汽車で行った道のりをたどるために郊外電車で訪れた。パリから北西30キロほどのオワーズ川岸にある小さな村がオーヴェール・シュール・オワーズ村だ。印象派の画家達(ドービニー、コロー、ピサロ、セザンヌ、ギョーマン、ルノアール、ブラマンク等)も惹きつけた村であった。
ラヴォー亭で取材に応じるジャンセン氏
ジャンセン氏と筆者トモコ・オベール
ゴッホの絵
1890年旅籠屋であったラヴォー亭にアルルから引き上げてきたゴッホが到着したのが5月20日だった。弟のテオの提案である。知人のガシュ医師が住んでいる村、パリから比較的近いということもあった。
ゴッホは3階の5号室(7㎡)の屋根裏部屋を間借りし、1階にある食堂で食事をしていた。アルルからの引越し荷物の届くまでの借りの住まいとして、節約のために安価な下宿先を借りたのだが、1890年7月29日、画家ヴァンサン・ヴァン・ゴッホは37歳4ヶ月の若さで波乱に満ちた生涯をこの部屋で閉じた。
ゴッホの死後は、誰も借り手がいなくて放置されていた。小さな天窓と質素なベッド、イス……。この村にはたった65日間だけの滞在だったが、70点以上の油絵とその習作、数十枚のデッサンとスケッチ、そして何通ものテオへの手紙を残している。
ガシェ医師の娘と息子はゴッホから貰った作品をルーヴル美術館(パリ)に寄付している。現在それらはオルセー美術館に飾られている。
ラヴォー亭の主人ラヴォー氏は、ゴッホの葬儀後、棺の前に並べられたゴッホの絵を、テオから「どうぞ記念にお持ち帰りくださいと言うのを、私はもう2枚持っていますからと断わりました」というエピソードがある。それはかの傑作のラヴォー氏の娘アドリーヌを描いた絵と、7月14日の村役場の絵だった。しかもその後ラヴォー氏は、気軽に気前よく他の人にその絵をあげてしまっている。
現「ラヴォー亭」外観
店内もゴッホが食事をしたままの「ラヴォー亭」が保存されている(©写真:ジャンセン氏提供)
1890年代のラヴォー亭(©写真:ジャンセン氏提供)
ラヴォー亭ラヴォー氏の娘アドリーヌを描いた絵の看板がある
ゴッホの下宿部屋がそのまま保存されている(©写真:ジャンセン氏提供)
厳かなまで美しい村
「1985年にラヴォー亭はそっくりフランス国の歴史的文化財に指定されました。私は87年に困難な問題を経てやっと購入できたのです。92年に100年以上のこの建物の復元工事に取り掛かりました。工事前の5~6年は専門家と専門職人からなる緻密な制作過程を煮詰めるのに費やしました。約2年の時間をかけて、歴史的建造物が保存されたのです。約1800万ユーロ程かかりました」
ジャンセン家の財産と有志の人たちの寄付によって歴史的建造物は保存された。現在「ヴァン・ゴッホの家」と名付けられ、アンスティチゥー・ヴァン・ゴッホ(ヴァン・ゴッホ研究所)の管理の下にある。
「ここ至るまでの最も難題としたことはポリティック(国)でした」と大きな声でジャンセン氏一言。つまりフランス国との戦いで8年間掛けて勝ち取ったという。自信に満ちたジャンセン氏の顔であった。
ラヴォー亭は「ワイン販売業及びレストラン」の認可書を所持する古くからある店だ(*写真参照)。私も数年前、ラヴォー亭を訪れて食事をしたがあるが、昔ながらのフランスの家庭的な伝統料理のレストランであった。フランスの料理の量が多いのは良く知られているが、やはり十分な量であった。ワインも美味しく「ゴッホもこの食事とワインを堪能していたのか」と感慨深く味わった記憶がある。奥のテーブルを見渡し、ゴッホはどのあたりで日々の食事をしていたのかと、遠い過去の彼の姿を追ってしまった。
「40回近く引越しをしたゴッホだが、その当時のまま保存されているのは、唯一ここだけです。それ以来、すでに世界中から約130万人もの人がここを訪れています。また、『ゴッホの家』の紹介のために私は何度も日本へ行きました。そのたび日本の皆さまの心からの歓迎に深い感銘を受けました。日本の人たちは昔からゴッホのこの終焉の地にたくさんいらっしゃっています。心からゴッホを慕っていることが良くわかりますね」
冬は休館しているのだが、この日も日本からの観光客があたかも聖地巡礼のようにゴッホの足跡を辿っていた。
「オーヴェールは厳かなほど美しい」と、ゴッホはテオに書いている。ゴッホの生まれた南オランダのズンデルト村まで450キロの『北の村』である。
『オヴェールの教会』(オルセー美術館所蔵-©写真:ジャンセン氏提供)
村の教会もゴッホが描いたまま保存されている
『村の階段』と道もそのままである
『村の階段』(セント・ルイス美術館所蔵)の看板がある
『7月14日の町役場』の市役所もそのまま保存されている
ゴッホの夢をかなえる
取材をすすめるうちに、ジャンセン氏の使命ともいえる心の内を話してくれた。
「それはゴッホの夢をかなえるということです。ゴッホは『ある日、僕はどこかのカフェで個展が開けるようになると思う』と、1890年6月10日に、テオに手紙で打ち明けています。ゴッホのこの終焉の地で、最後の住まいで彼の夢が実現するということです。ゴッホの主作品を彼の夢の願いのように、このラヴォー亭で彼の部屋で見られることになります。現在、どの作品を展示するかなどの公表は控えさせていただきます。このために、アメリカのゴッホを個人で所有している方々と交渉が続いています。協賛の寄付のご協力も世界中の方々にお願いしています。世界で一番小さな美術館になるでしょう」
偉大な画家の夢をかなえるべく奔走しているジャンセン氏は、奇しくもゴッホが亡くなった年齢と同じ年齢で「ゴッホに出会い」、人生が変えられた。最も深くゴッホを知り愛する研究者のひとりであろう。
ゴッホはピストル自殺とされているが最近の研究で別な意見も出ているのだが、ジャンセン氏は「いろいろな人がいろいろな事を書いていますが、私は彼の作品や手紙から感じるものだけを重要視しています。例えば、ゴッホの娼婦との生活やアル中・精神病等を否定し、文学者・聖職者の精神の面から書いている人たちもいます」と話す。
たった2坪程のゴッホの部屋に見学者は5人づつしか入ることはできない。この部屋に入るたびに私は思わず涙がでてしまう。
弟テオも彼たちの叔父も、ロンドン、パリ、オランダで幅広く商売する有名な画廊の画商だった。しかしゴッホは生前にたった1枚の絵しか売れなかった。いつも内心では遠慮しながらテオに画材や生活費のためにお金を無心していたのだろう。いつかカフェで個展が開けることを夢みて……。
なんとやるせない人生をおくった画家であったのか。ゴッホは私の最も好きな師と仰ぐアーティストだった。
ゴッホに関する著書とゴッホの手紙(*)
ゴッホとテオの墓(©写真:ジャンセン氏提供)
「ゴッホに関する著書とゴッホの手紙」の写真説明 手紙はジャンセン氏から提供されたものだが、実際にゴッホが7月27日に亡くなった時に持っていたもののコピーである。内容は「テオが送ってくれたお金のお礼や、テオの周囲の面倒くさい人間関係のことなどはどうなったかなど。テオは他の画商のように、いわゆる口八丁手八丁で商売が出来ないようだなどが書かれている。
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)