「もの心つくころから父(レフ・トルストイの孫セルジュ)から曽祖父レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの話ばかり聞かされて育ちました。子どもの頃は『あー、またか!』とうんざりしていた時もありました。プレッシャーを感じましたしね。もちろん今は、自分自身が彼の家系ということは、とても光栄に思っています。そのことによる自信もでてきたからです」
写真家ディミィトリ・トルストイ、偉大なる文豪トルストイのひ孫である。パリ17区の古く重厚な木造りのアトリエを訪ねると、気さくに迎えてくれた。
「このアトリエで仕事をして約20年になります。以前のアトリエから数えると約30年間、写真家として仕事をしています」
私(筆者トモコ)は約2年前、彼の写真個展の会場で初めてディミィトリに出会った。パリでの個展ギャラリーは、写真家、画家、文人、企業人、マスコミ関係者などで熱気にあふれていた。その中で一段と背が高くあご髭の似合う彼がいた。顔の骨格、細身の体形、そして独自の鋭く深みのある魅力的な目は、写真で知る文豪トルストイの面影を感じて思わず見詰めてしまった。
ディミィトリ・トルストイ
D.トルストイの個展会場で
トルストイの妻ソフィアの影響を受けて
1959年、彼はフランスのヌイイ・スュウ・セーヌというパリに隣接する高級邸宅の並ぶ街で生まれた。トルストイ家は代々ロシアの伯爵家であった。
「両親の周囲はロシア人を含め多くの有名なアーティストたち、つまり作家、画家、音楽家、バレエダンサーたちがよく訪ねてきました」
子どもの頃から、貴族の館でのサロンで著名なアーティストたちと接触があり恵まれた環境で、感性豊かな少年期を過ごしている。
そのような環境の中で、ディミィトリの父セルジュにとって祖父レフ・トルストイは最も尊敬する人物であり、82歳まで生きて信念を貫いた文豪の話しを息子ディミィトリに繰り返し話していた。
しかし、ディミィトリに決定的な影響を与えたのは、レフ・トルストイの妻ソフィアであった。伯爵家の令嬢であるソフィアは妻として、また12人(9男3女)の子どもたちの母としてトルストイ家を切り盛りしていたが、なんと、当時では非常にめずらしい女流写真家であったという。
「私は子どもの頃、彼女の写真作品を見ました。そのとき、私は何かを感じたのです。そして、このような写真を撮りたい、写真家になりたいと思ったのです」
「14歳頃には、自分でトイレや風呂場を暗室代わりにして写真を現像しました。その頃は白黒の写真作品をよく作っていました。また、写真家の従兄弟のフォト・ラボラトリーを手伝ったりして、写真に夢中でした」
21歳でプロの写真家として生きていこうと決心。5年間はプロカメラマンの下で修行に勤しんだ。「とにかく必死でした」と。
やがてめきめきと腕を上げて26歳で自分のフォトスタジオを持つ。写真家として速いスタートを切り、商業写真でも才覚を現した。
ペリエ、ルノー、エアーフランス、セリーヌ、バカラ、ケンゾー、ゲランなどのフランスのトップ企業やファッション関係のコマーシャルフォトなどを次々と手がける。傍ら、アート写真の展示会をさまざまな国で開催し作品を発表してきた。
そして、曽祖父トルストイの祖国ロシア・モスクワに今回行くことになった。「今年の10月末にモスクワのフォトサロンで作品を発表します。モスクワでは初めてですから、とても楽しみにしています」
フランス生まれのディミィトリだが「代々家族から正統なロシア語は引き継がれています。国籍はフランスですが、心情はロシア人です」と強い言葉で胸を張った。
D.トルストイと筆者T.K.オベール
仕事をするD.トルストイ
壁面にはD.トルストイの作品の写真が並ぶ
企業のCM作品もあるアトリエ
フォトニュメリック(デジタル写真)への移行
21世紀は写真の世界もデジタルへ移行し、自由にさまざまな試みで作品を作れるようになってきた。同時に以前よりも多くの写真家が世に出ているが、作品を高額で購入する人も少なくなり、商業写真などの需要も減少しているのが現状であるという。
「しかし、私はデジタルによる今の作品制作の方法で、容易にスムースに仕事ができるようになりました。以前の方法では1日一つの仕事で精一杯だったのです。色や光、その他のテストを繰り返し、暗室に入って、慎重に現像するなど。今はデジタルの特徴を使った新しい創作ができるようになり、仕事の依頼は途切れることなく絶えずありますので、一度に数件の仕事をこなすことができます」
21世紀は、あらゆる機器がコンピューターのシステムにより高度となった。アートの領域が広がり、さまざまな発想で形を表現することも可能となり、色や形の複雑さや緻密さも高められた。一言でいえば便利になった。
「私はごく自然にフォトニュメリックへ移行しました。写真家にとってもデジタルは突然で劇的変化だったのですが、時代の先を読み、すぐに移行することにとりかかりました。約2年間でこのシステムを習得して自分のものにしました。私は急いでいるのです。スピード感は大切です」
彼は躊躇せず、時代を感じて彼の広く豊かな感性で受け入れていった。私が話を聞いている間も、電話が何回も鳴り響き取材を中断させなければならなかった。電話での用件を聞きくと、すぐにコンピューターに数秒間向かわざるを得なかった。そしてインタヴィューの口調も早くなった。日々、過密なスケジュールをこなし、時間の無駄をしないように心がけているのが感じられる。
「フォトニュメリックの欠点は長期間残す事ができないですね。質、テクニックの違いもどんどん変化します。はたして昔の紙焼きのように残せるかどうか。CDやコンピューター、それらの付随物は永久的でありません。これらは消滅するからです」
現在のデジタル写真は実験段階という感じにも受け取れるが、これを積極的に取り入れ膨大な仕事量をこなしている彼のエネルギーは、かつて『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などの傑作を世に残したレフ・トルストイのエネルギーのすごさを思い起こさずにはいられない。
ヤースナヤ・ポリャーナにあるレフ・トルストイの墓
トルストイの「戦争と平和」の原稿。右ページには子どもの落書きがある
取材後、アトリエで
トルストイの遺志を継ぐ
「4年毎に全トルストイ家の人びとが世界中から、レフ・トルストイの生家であるToula市(モスクワから約200キロ南)に集まるパーティーに出席しました。250人以上の家族の参加者で盛大に行われました。生家の敷地は今は400ヘクタール位ですが、当時は1000ヘクタール以上もあったということです。敷地内の公園にある彼の墓はとても質素ですが、それが彼の遺志です。教会からの破門もあったからです。私が彼の遺志を受け継ぐ重要なところは彼の『ヒューマニスム』と『自然主義』です。今の時代に欠けており、ともすれば忘れ去られていますが、最も必要とされていると思っています」
子どもの頃、レフ・トルストイの話になるとプレッシャーを感じてしまったと冒頭で話していたが、「レフの話がでるとプレッシャーを感じてきましたが、それは年とともに消えることなどはなく、ますます感じるようになりました」と話す。
文豪トルストイの作品書評も少し語ってくれたが、トルストイの思想や使命感を年を重ねるとともに、さらにより深く理解するということであろう。
私が見た彼の作品は、“髭”と“植物”のシリーズだった。“髭”は独立した存在感があり、“植物”は果物が輪切りにして大きく中心に置かれていた。その背景は神秘的な光に包まれ、動いて呼吸しているような、人間の一部のような、不思議な魅力のある作品であった。
モスクワでのディミィトリのサロン展に集まる人々は、文豪トルストイを愛し尊敬している人々がたくさんいる。ディミィトリ・トルストイとの出会いと彼の作品との出会いを、さぞかし心待ちにしていることであろう。それも彼にとっての大きなプレッシャーではあるが、ロシアは彼の通らなければならない道であり、それは「トルストイ」を受け継ぐ者としての誇りの道でもある。
作品「chinese apple」
作品「Choux blanc」
作品「fruit du dragon」
作品「Barbes」
作品「jean lou」
作品「Quentin」
レフ・トルストイ(1828-1910) 19世紀ロシア文学を代表する文豪。代表作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。伯爵家の4男として生まれる。非暴力者として政治、社会に影響を与えた。
Toula(トゥーラ) モスクワより165km、さらにトゥーラの郊外12kmにヤースナヤ・ポリャーナという自然に恵まれた所にトルストイの生家があり、その広大な敷地内に彼の墓がある。ここで『戦争と平和』『アンナ・カレ-ニア』等が執筆された。
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)