アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.31

ピアニスト・アーティスト-Ingrid Fuzjko v. Georgii-Hemming【イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング】-無垢で少女のような「魂のピアニスト」

私(筆者トモコ・k・オベール)の「フジコ・ヘミング」との出会いは、彼女が「絵描き」のアーティストとしてだった。

数年前、私が日本の神戸市で個展を開催したとき、展示会の合間に山の手の異人館を散策した。偶然にある建物でピアニスト「フジコ・ヘミング」の絵画展を見ることができた。エキゾチックで愛らしいイラスト画が印象的であった。その後、パリの画廊でもやはり彼女の個展が開催されていたので出かけていった。このパリの画廊は、私が以前グループ展で2度ほど招待されて展示参加した画廊である。フジコさん本人は不在だったが、やはり印象的な作品が展示されていた。

フジコさんの美しい絵のカタログ

筆者Tomoko K.OBERとフジコさんのサロンで

動物救護を「ピアノコンサート」で支援

今年、初めてパリで彼女のコンサートに行くことができた。会場はパリ17区のサル・コルトー(*)。動物救護チャリティーコンサートで統一料金の自由席だった。会場には約40分前に入場したにもかかわらず、ほぼ満席(500席)状態であった。会場中を見渡してやっと空席を見つけて座ることができた。

取材の冒頭でフジコさんにこのときのコンサートの件を話すと、「聞くところによると2時間前からお客様がいらしてくださっている」とにっこり。彼女はヨーロッパの各地でこのような動物救護チャリティーコンサートを行っている。「パリ12区にある動物救援協会を支援しているの」

『動物救援協会(CDA)』の新聞記事を見せていただいた。日本語に訳すと、「彼女のコンサートは満員御礼の大盛況で始まり、日本の伝統的な着物を翻しながらショパン、リスト、ベートーヴェン、モーリス・ラヴェル、トシオ・スケガワ、ブラームスなどを演奏してくださいました。私たちは彼女の素晴らしいピアノ演奏を堪能することができました。中でも『猫の為の鎮魂曲』は初めて聴く機会が与えられました。これらの収益金は全てCDA(動物救援協会)への寄付となります。力強い支援に心から御礼申し上げます。彼女の次のパリでのコンサートはパリ日本文化会館にて、10月24日に開催します。素晴らしいアーティスト・フジコさん、本当にありがとうございました」と、フジコさんへの感謝の記事が掲載されていた。「私は一人で、猫や犬と住んでいるの」と話すフジコさんは、長年、動物愛護のために援助し続けていた。

コンサートの3日後に、このビオス電子版インタビューの承諾を電話で知らせてくださった。パリのコンサートの後にドイツのコンサートが4箇所、その後パリに戻ってからということで、多忙にもかかわらず快く引き受けてくれた。4月からは日本で20箇所以上のコンサートを控えていた。

動物救援教協会の新聞記事

フジコさんの肖像画(大島 誠・画)のあるサロン

自筆の絵が飾ってある部屋

マシュマロのような白い手

4区のパリ市庁舎に近いマレ地区には17、18世紀の貴族の館やその附属の豪華なアパルトマンが時代を超えて存在する。オスマン公爵のパリ都市計画の手が入らなかった古き時代がそのまま残されている地区である。また、4区にはヴォージュ広場、ノートルダム大聖堂、ポンピドゥー・センターなどがある。

フジコさんの住まいはそのような美しいパリの一角にある。門を通りベルを押すと優雅な微笑をうかべたフジコさんが出迎えてくれた。それぞれの部屋は彼女の感性でシックにコーディネートされ、古きよき時代のパリの住まいのようであった。このアパルトマンで自分の世界を創り、そこから自由自在に世界を飛び回る。「不思議な魅力を持つ女性」というのが第一印象であった。「パリは大好きでここに住むことに憧れていました。そして他の国と違い、ここでは私をほっておいてくれるからいいのです」

私は、著書『フジコ・ヘミング運命の力』(㈱阪急コミュニケーション発行)を読み、また日本のドラマ『フジコ・ヘミングの軌跡』を見る機会があった。ドラマを見ている最中に思わず何度か泣いてしまった。しかし、ドラマ以上に現実はもっと大変であったことは想像できる。

「そう、地獄でした……。それは今も続いているの。人間関係ですね。どこの国でも、人を傷つけようとする心の冷たい人がいるのです」と話す。「人間はお金のために心がひねくれてしまうのね。人間不信になって閉じこもったこともあったわ。猫や犬と一緒にいるのが一番いいわ。それに、私にはピアノがあるから」

彼女は16歳の時、耳が聞こえなくなり長い年月をかけて、いろいろ治療をしてきたという。現在は「左耳だけだが40パーセントまで聞こえるようになった」

取材の初めはテーブルを挟んで会話を始めたが、「私の左側に来て」と、耳元の31cm近くのところで彼女に接近して話をした。ピアニストらしい大きな白い手は、マシュマロのようにやわらかく温かかった。このやわらかい白い手が魔法のように人々を魅了する音楽を奏で、多くの人々の心を揺さぶる。

フジコさんのアパルトマンの近くのパリ市庁舎(右)前の広場

自筆の絵が飾ってある部屋

心清らかに神に祈る

私(筆者)がヨーロッパ中で招かれる展示会場には、節約のために、車に絵を積んで一人で運転して行くという話をしたら、フジコさんは「私も車を持っているの。みんなが立ち止まって見るようなクラシックなシトロエン。私も運転したい」という。フジコさんの年代ではめずらしく運転免許を持っている。好奇心旺盛で活発なフジコさんの性格の一面を垣間見た。

語学に関しても「私はドイツ語、スウェーデン語、英語、そして日本語を話します。でも、フランス語は耳が悪いので良く聞き取れないのよ」と、多才である。

フジコさんの母は日本人、父はスウェーデン人である。 突然、祖先の話となり「母方の祖母の従兄弟が犬養健(いぬかい・たける)。父方の祖母はドイツ人とロシア人の両親の子ですが、祖先は18世紀にストックホルムのオペラ座で『仮面舞踏会』上演中にスウェーデン王グスタフを暗殺した伯爵。そのためにギロチンで殺されたの。これ実話です」と話してくれた。

1792年に演劇好きで舞踏会好きのスウェーデン国王グスタフ3世は、『仮面舞踏会』上演中に、王の統治に反旗を上げた伯爵ヤコブ・ヨハン・アンカーストレムによってピストルで狙撃された。捕らえられた伯爵は土地及び特権剥奪、斬首刑となった。この事件はジョゼッペ・ヴェルディのオペラ『仮面舞踏会』などの題材となったようだ。

そして、奇しくも祖母の従兄弟犬養健の父、犬養毅(いぬかい・つよし)も銃弾による最後を遂げている。まさにフジコさんは、後に壮大なオペラや歴史小説として世に残るような、歴史上の人物の「DNA」を引き継ぐ持ち主であった。やはり、フジコさんはただ者ではない。

そのようなフジコさんは今年82歳になる。今も変わらず各国の演奏会を精力的に巡っている。どの会場も多くのファンで埋め尽くされている。いったい彼女のエネルギーのもとは何なのか!すると明快な答えが返ってきた。

「エネルギーは、心清らかに生き、神に祈ること。恨まないこと。何のために生きているか、神が指導してくださる。これは難しいことではないのです」と。そして「私の一番好きなことはピアノ曲を聴きながら、絵を描くことです。私は特にゴッホが好き」と話す。私(筆者)も大好きなゴッホ、終焉の地を案内する約束をした。

中央のCDジャケットはフジコさんの絵

苦しみの果てに

彼女の父は画家であった。その才能はフジコさんに引き継がれている。そして母の才能も。ピアニストであった母は、フジコさんの教育に青山学院(初等部から高等部まで)を選んだ。幼いころから、聖書と讃美歌になじんだ学校生活であったことはいうまでもない。やがて東京藝術大学を卒業後、28歳でドイツに留学。ベルリン高等音楽学校を首席で入学、その後ウィーンでブルーノ・マデルナ、レナード・バーンスタインに見出される。

しかし、バーンスタイン等世界的な音楽家の推薦するリサイタル直前に、風邪をこじらせ中耳炎で耳が聞こえなくなるというアクシデントに見舞われ、リサイタル中止という結果、失意の中でベルリンを離れヨーロッパを転々とした。それは心身のダメージをかかえ自力で生活するための闘いの日々でもあった。苦しみが続く日々にも彼女には命の糧としてのピアノがあった。

取材中にも口にした彼女の言葉、「わたしにはピアノがある」。その燃えるようなダイナミックさと繊細な情念の旋律は、やがて人々の魂を捉えるピアニストとして世界中で脚光を浴びる。

「母は90歳で亡くなりましたが、その歳までお弟子さんがいて教えていました」と、フジコさんが5歳のときからピアノの手ほどきをしてくれた亡き母について、尊敬に近い思いで話しているのを感じた。フジコさんの人生は、苦しみの果てに訪れた今日の素晴らしい人生が約束されていた。

彼女の公式ホームページに「……米国同時多発テロ後の被災者救済のために1年間CDの印税の全額寄付や、アフガニスタン難民のためのユニセフを通じたコンサート出演料の寄付、3.11東日本大震災復興支援チャリティーコンサート及び被災動物支援チャリティーコンサートといった支援活動を続けており、こうした人や動物を愛し支援する事を忘れない人間味溢れる人柄も多くのファンを魅了してやまない」と記されている。

取材を終えて振り返ると、国も人種も言葉も超えて人々を感動させる「魂のピアニスト」フジコさんは、強烈で豊かな感性と無垢で少女のままのような不思議な魅力を併せもつ女性であった。

「心清らかに、神に祈る」と話したフジコさんの日常の生活が営まれる丸いテーブルの上には聖書が置いてあった。足元にはいつのまにか黒猫が横たわっていた。

La Salle Cortot(ラ・サル・コルトー) ピアニストのアルフレド・コルトーの呼びかけで1919年に建築家のオーギュスト・ペレによるアール・デコ様式で設計された中規模のコンサート・ホール。現在フランス国の重要文化財に指定されている。

フジコさんの愛猫

Ingrid Fuzjko v. Georgii-Hemming

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。

フジコ・ヘミング

公式ホームページ http://fuzjko.net/