アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.33

彫刻家・理学療法士-Raphaël Marcz【ラファエル・マークゼ】-奇跡の手

美しい6月のパリ、高級住宅街が並ぶ16区にある彫刻家ラファエル・マークゼのアトリエを訪ねた。彼のアトリエは通称「シャンブル・ドゥ・シュヴォー」といわれている約1世紀前に建築された2階建ての建物内にある。同じスペースで15、6軒続いている長屋のようなユニークな建物だが、これはそれぞれが車庫になっていて上に小さな部屋がある。ブルジョワのご主人のために運転手がいつでも待機していられるように、運転手の部屋として建てられたという。今の時代パリ市の賃貸料はとても高いので、主に学生達に利用されている。マークゼも以前、息子のベビー・シッターをしていたドイツ人の学生に貸していたが、今はアトリエとして使用している。

「シャンブル・ドゥ・シュヴォー」外観(左)

ミレー友好協会でボザール賞を受賞

彼は毎週ウイーク・エンドにアトリエに来て作品の制作に集中する。

「一日かけて粘土を1000℃くらいに焼いてもらい、ブロンズにするのですが、専門の窯焼き職人や、ブロンズ鋳造所の鋳造職人を必要とするまさに合作の仕事なのです」と話す。人物の全体像や身体の部分などの作品を多く手がけている。

「私は若い時から彫刻が好きでお金が入ると好きな作品を買ってコレクションしていました。18歳頃からお金は全てこれにつぎ込んでいました。ブロンズは結構高いのですが、興味がある作品は、やはり手が出てしまうのです。そんなに好きなら自分で制作したらと友人に言われて、1980年頃、彫刻の材料、機材などを購入しましたが、ただただ眺めていただけでしたね。そして、『いつかは制作しよう』と」

彼はウイークデーは、理学療法士(フランスでは一般に「キネジスト」という)としての多忙な日々を過ごしているが、彫刻の材料を購入してから20年もの歳月がたった後に、初めて土を買い、台所で作品を作り始めたという。

初めての展示会はパリの彼のクリニックの近くで開催した。その後、個展、2人展、団体展等に出展し現在に至っている。

「本当は彫刻だけに専念できたら一番いいのですが。その頃、パリの16区にクリニックを開業しましたし、また再婚して、子どももまだ小さくて日常的にめまぐるしかったのです。しかし、私がこのように続けてこられたのは、2つの要因があります。1つは、初期の頃の2人展で一日で17点も作品が売れたこと。もう1つは、ミレー友好協会日本支局の大阪展で「ボザール賞」を受賞したことで自信がついたということです」

その後、他の団体や協会からいくつもの賞を受賞し、彫刻家として安定した制作活動を継続することができた。

クリニックの近くのアルマ・マルソーから見たエッフェル塔と自由の女神の金の炎(右)

アトリエで筆者のトモコ(右)とマークゼ

制作中のマークゼ

アトリエにある作品

展示会のレセプションで。マークゼと妻のマルガレット(エステシャン)

理学療法士への道

1952年、マークゼは北アフリカのチュニジア(*2)の首都チュニス(地図参照)で生まれたフランス人である。

「祖母はイタリアから、祖父はスペインから移住してきました。私で3代目のチュニジア在住です。家族はチュニスのフランス地区でビジネスをして家を構えていました。海と太陽と砂、そして陽気な人々に囲まれて、平和な少年時代を過ごしました。あらゆる人種・宗教・国籍が混ざり合った正に『メルテイング・ポット』そのものの町でした。チュニスには水準の高いフランスの学校が幾つかあり、ドラノエ元パリ市長や政治家のフィリップ・スガン氏などもそういった学校の出身です」

「私が7歳の時、チュニスで父が自動車事故に会い瀕死の状態から一命を取りとめました、約2年間入院して、20回以上、大変な手術を受けて助かったのです。理学療法士が退院後も毎日家にきてくれて、動けない状態の父が少しづつ動けるようになったのを見て感動しました。『人の力によって、人を動かすことができる』という感動でした。あの状態だったら寝たきりの状態か、よくても車椅子の生活だったところを、理学療法士はその優れた腕で、父を元の身体に戻したのです。なんと、歩くことも働くこともできるようにしたのです。まさに『奇跡の手』ですね。今は高齢で少し体力がなくなってきましたが元気でいますよ。あのときの驚きが私を理学療法士の道へと向かわせたのです。

チュニジアの地図

生まれ故郷からフランスへ

1881年からチュニジアのフランス保護領時代がはじまったが、1956年にフランスから独立した。

「フランス人はトランク1個だけ持っていくことが許され、全て置いて立ち去らなければならなかったのです。土地家屋・財産・会社その他、全てそのままです。つまり着の身着のままで去らなければならなかったのです。結局、私も1964年には、生まれ故郷であるチュニジアを出なければならなかったのです。12歳でした。私たち家族はパリにたどり着きましたが、そこで父が最初に行動したことは、私のために水準の高い学校を探したのです。『まず教育を』ということですが、おかしいですよね、普通だったら、アパートなど住居を探すことを優先するのですが…」

歴史の流れのなかで翻弄され、全財産を失いトランク1個から住み慣れない国で生きていかなければならない。この状況の中で父親は、愛する我が子のために、教育こそ、どんな時代も乗り越えていくための財産になるという思いがあったのか。

やがて、彼はパリで理学療法士としてクリニックを成功させると同時に、彫刻家として創作活動を続け、バランスよくフランスでの生活を保ち続けていった。

「彫刻は手探りでの制作でしたが、専門家のアドバイスを受けて作品の質を向上させていきました。1年間のテーマを決めて、焼き物、ブロンズ、または両方を組み合わせた作品を制作し、1年に4、5回のペースで展示会を開催しています」

人間の身体はおもしろい

好きな彫刻の話になると止めどもなくことばがあふれる。「この前ベーコン(*2)の顔を、彼の作品から3Dにして制作しました。平面を立体にするので、横顔、頭の後など、イメージがとても難しかったですよ」と、ユニークな発想の創作に目を輝かせて説明する。

「今年はこれからフランス、ベルギーなどで4回の展示会を控えています。3Dの立体作品は人を引きつけますね。やはり身体を触るだけでなく、その身体を自分で創ることができたら、と思ってここまでやってきましたが、理学療法士も彫刻家の両者とも共通点がたくさんあると思っています。人間の身体はおもしろいです」

男性の彫刻家が多いのは「神が人を創造したように自分も創り手になりたい」という思いからだということもよく言われる。

彼の父親の動かなかった身体を動かすようにした療法士の「人の手」、それは彼にとって「奇跡の手」に思えた。そして、その「人の手」で人を創り、その作品に「息を吹き込む」のが、彫刻家である。

1)チュニジア共和国 北アフリカ、チュニスが首都。地中海に面し、アルジェリアとリビアに国境を接する。3千年以上の歴史のある地中海文明を築いた国家カルタゴが前身。1881年から1956年までフランスの保護領だった。

2)べーコン Francois Bacon(1909-1992) 20世紀のアイルランドを代表する画家。作品はデフォルメされた歪んだ顔や身体を描いた。

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。