何年か前、私が美那子・ドベルクさんに会ったのは、カトリーヌ・ドヌーヴの出演したフランス映画「パレ・ロワイヤル」に端役で出演したときだった。中央フランスのお城の中の豪華なサロンでの撮影現場では、彼女は一段と注目を浴びる準主役の日本の皇后陛下の役であった。私は彼女が演じる皇后陛下の御付の役だった。
お昼にスタッフと一緒に食事をする際に隣りで雑談をしたのがきっかけだった。短い時間にもかかわらず、その内容は歴史の話にはじまり東欧の文化も併せて私にとって大いに興味のある話題だった。
筆者トモコ(左)の展示会で
死に物狂いの勉強
彼女は中国の大連の生まれで2歳から東京で育った。実践女子大学の国文科で古典から現代文学までを学び、さらに漢文を学んでいる。
「好きな作家は樋口一葉、宮本百合子、野上弥生子でしたね。外国語では英語、ドイツ語を専攻しましたが、在学中は大した実力はつきませんでした。卒業後、東京の日仏学院で本格的にフランス語の勉強を始め、ディプローム課程に進みました。連日フランス語の授業なので、死に物狂いで勉強して卒業できたのです」
当時はパリ大学の教養課程(Propédeuthique)の試験を日仏学院で施行し、採点はパリで行うシステムがあった。
「それも初級と上級を受けて通りました。将来、フランス語教師か翻訳家の仕事をしたかったのです。妹が青山学院大学の英文科を卒業し、早稲田大学で英語を教えていましたので、それでは別の言語をということでフランス語にしたのです。この時代の苦しい訓練が今日までの生活の基盤になっていると思います」
やがて、学院の教授からパリ留学を勧められ渡仏することになった。渡仏後、フランス文部省から2年間の奨学金の受給がなされた。
「いろいろな授業に出てみて美術史専攻に決めたのです。その後、教授がCNRS(*1)に入って研究を続けたらどうかと勧めて下さったのです。試験を受けてパスしました」
2年間の留学予定が早50年ほどになって、たゆまぬ努力と豊かな感性で現在まで研究を続けている彼女は、日本女性として数少ないバルカン半島の歴史研究者でもある。
バルカン半島
ダニューブ河に沿って、そして日欧文化交流史へ
最初の彼女の専門は後期ビザンティン美術、つまりコンスタンティノープル陥落(*2)以降の美術史である。
「陥落後は主要な交通機関であったダニューブ河(*3)に沿って人びとは迫害から逃れビザンティン文化が拡散して行ったのです」
現在、東欧・中欧と呼ばれる地方でバルカン半島の旧ユーゴスラビアやブルガリア、さらにハンガリアの国などが含まれている。
「これらの地方はローマとビザンチンの交差、その後のオスマントルコ支配に伴うイスラム教の影響など、東西の文化・宗教・言語が混合した複雑で独特な文化を持っています。現地調査に入る前に、ハンガリーでの夏期講習を皮切りに、スラブ語のセルビヤ・クロアチア語を、ブルガリアのソフィアではブルガリア語の講習を受けました」
フランスの外務省文化交流部の派遣で、これらの国々の人里離れた修道院や教会巡りをした。
「高価なモザイクに代わってコスト安で表現自由なフレスコ画が教会の内外・天井の壁を美しく飾るようになりました。とりわけ、北東ルーマニアのモルダヴィア地方の山奥にあるヴォロネッツの小さな修道院は、5世紀を経た今日も尚、鮮やかな色彩を保ち、外壁の大きな『最後の審判』図のバックの青色は素晴らしく“ヴォロネッツブルー”と呼ばれています」
ヴォロネッツ・ブルーの教会(ルーマニア文化会館パンフレットより)
ヴォロネッツ修道院
本当に好きな事をやっている人
CNRSに入ってからは歴史部門の配属になった。16、7世紀の日欧交渉史をテーマに選んだという。
「まず16世紀半ばに始まるイエズス会士の日本伝道史です。精力的で多岐に亘る彼らの布教活動の中で、キリシタン版の名で知られる活字の出版は特筆すべきでしょう。若い時に来日したポルトガル人ジョアン・ロドリゲス(後に神父となる)は日本語の上達も早く、ポルトガル式ローマ字で『日本の文法書』『日本大文典』等を著述・出版したのです。キリシタン禁制下にも徳川家康に可愛がられ、三角貿易による中国から輸入の生糸買い付けに参加するようになり、重宝がられたのですが、周囲から妬まれて、マカオに追放されたのです。彼はその地で『日本小文典』を執筆しています」
その後、鎖国後の交渉史に日蘭関係の研究が加わり、ヨーロッパや日本に散在する文献、資料の採集や現地調査のために、彼女は国際学術振興会やCNRSの科学研究助成金を得て、イタリア、ポルトガル、オランダに研究調査に行っている。
「これらの援助金は希望者が多いため、後は自費で関係諸国を訪れ、調査を進めました。旅費・宿泊や資料・写真コピー・著作権使用等にかかる費用は大きいので、日常生活の食事や衣類はごく質素にしています」と、やはり本当に好きな事をやっている人であり「できる人」だ。
彼女に関することは主にフランス語か英語でしか検索できない。フランス語の『日本歴史辞典A-Z』15冊(改定増補版は1冊本)の共同執筆、他、多くの論文や専門書がフランス語・英語で出版されている。『なよ竹』(実践女子大国文科雑誌)、『パリのフォワイエから、1964-1965』(石田喜久子著 DTP フォレスト社、2012)等、幾つか日本語での紹介がある。
探せば見つかる
歴史の穴を見つけて埋める、と彼女は言っている。この穴を見つけるためには穴以外の所が判っていないと見つからない。
「先人の業績は貴重で、研究者の養分となっています。しかし、既に研究されたものではなく、自分で考え行動し、考古学者のように掘り起こすと何か新しいものが出てきます。“探せば見つかる”のです。それには疑問を持つこと。『はたしてこれは確かなのだろうか?』そして、歩く。つまり『自分の足でそこに行き、自分の目で見る』ということです。すると隠れていた歴史の穴に気がつきます。私の小さな役割はそれを埋めることだと思っています。現に私はこうして幾つか埋めてきました」
数年前、彼女は国際交流基金とフランス基金文化部の助成金を得て、8カ国から研究者を招き、パリの大学都市(シテ・ユニヴェルシテール)で3日間「第一回16-17世紀の日欧交渉史国際学会」を開催した。
「好評でした。しかし、全て順調にいっていたわけではありません。この時も先出CNRSに入った時も、嫉妬の嵐でいじめられました。どうして人間は自分と他者を比較してしまうのでしょうか?これは必要の無い競争心やコンプレックスからだと思います。私は有名になるために研究をしているわけではないのに。図書館でも資料を見せてくれなかったり、随分意地悪にあってきましたが(笑)、私は元気でこうして研究を続けています」
デカルトを生んだ国
彼女は自分の研究の他に、漢文の古文書のセミナールに出ている。
「人の2倍の努力をしています。暗記しそれをさらに自分の言葉で考え表現するという作業の連続です。物事の奥を知りたいという好奇心を持てばちゃんと頭に入ります。この点フランスの教育・研究方法は合理的、組織的で、広く深く、それをどこから締め括るかなど、きちんと限界をつけるというやり方です。やはりデカルトを生んだ国ですね。暗記をベースに自分で考え学ぶという事を小さい時から養われています。以前カナダの学会に出席した時、到着空港で私の荷物が紛失し、テキストなしで研究発表できたのも、この暗記力のおかげです」
20カ国語くらいできるのでは?と質問するとおかしそうに笑った。
「そんなことありませんが、語学は好きです、それに研究のために必要です。フランスに住む以上、言葉ができるのは当然です。そして日本人としてフランス語以前に日本語がきちんとできないと、私たちの文化を正しくフランス人に伝えたり、彼らの質問に答える事はできません」
出演したフランス映画は、友人から誘われオーディションをうけパスした。しかし、日本で学会があったので一度は断ったという。
「パリに帰ってきてから、何度も映画会社からコンタクトがあり、顔のアップなしで遠くからという事でOKしたのです。実際はばっちり大きく撮影されて、パリの街を歩いているとフランス人日本人にかかわらず声をかけられ『サイン』などと言われてしまいました。『あれは私ではありません』と逃げましたよ」
彼女はこのデカルトを産んだ国で、目立つことなく自分の研究をいつまでも続けて行きたいという人である。そして、私のExpoに、いつも見にきてくれて批評をしてくれる人でもある。
1)CNRS(Centre national de la recherche scientifique) フランス国立科学研究センタ-。フランス最大の政府基礎研究機関。
2)コンスタンティノープル陥落。395年東西に分裂したローマ帝国の東半分で東ローマ帝国と言われ独特の文化の華が開いた。首都はコンスタンティノープル(旧名ビザンティン。現在のトルコのイスタンブール)。東方正(オーソドックス)教会本山があった。1453年にオスマントルコに滅ぼされる。
3)ダニューブ河 流域国―南ドイツ原流・オーストリア・スロヴァキア・ハンガリー・クロアチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナ・黒海へ注ぐ。ヨーロッパでヴォルガ河に次ぐ2番目の大河。全長2860km。
デカルトの肖像(フランス=ハルス画-1648年)
パリのカフェでインタビュー
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)