森の中の国
旧東ドイツのチューリンゲン州ズール市はドイツのほぼ中央に位置するフランクフルト(旧西ドイツ)から東に200キロの所にある。1942年、エヴァ・メラーはこのズール市で生まれた。ベルリン美術大学を卒業し、美術教師の資格を取得。西ベルリン在住は長く、今は夫と2人でベルリンにある家でゆったりと落ち着いた暮しをしている。家の近くにアトリエを持っていて、周囲は林から森へと続く。
「このあたりには、野生の小動物、リスやウサギなどがいるんですよ。ときどき庭先まできますがとてもかわいい。近くに第2次大戦時の防空壕がありますが、あまりにも頑丈な作りで、現在の機械でも取り壊す事ができずにそのままになっています。でも、いまでは、草木に覆われて緑の丘のよう。だから私はこのままのほうがロマンティックでステキに思えます」と、エヴァは楽しそうに住居とアトリエの周囲を説明した。
ドイツの国全体が「森の中につくられた国」というようなイメージがあり、グリム童話の生まれた地域としても納得できる。そのような環境の自然豊かな地域で幼い頃の感性がつくられてきたエヴァであるが、第2次世界大戦の悪夢の中で生まれ成長してきたのも事実である。戦時中生まれのエヴァは45年の敗戦後、分断されたドイツで61年に建てられた「壁」のある祖国で生き、創作活動をすることになったのである。
エヴァ・メラー
アトリエにて
ベルリンの壁・ノスタルジー
89年11月9日、東西に分断されていた「ベルリンの壁」が崩壊した。私(筆者Tmoko k. OBER)が初めてベルリンを訪れたのは、壁がなくなった5年後だった。ベルリンで開催される団体展の参加のためにパリから私の小さな車で、友人(彫刻家)と2人で作品をギュウギュウ積んで、統一されたドイツに行った。
会場は旧西ベルリン側の中心の官庁街と思われる場所で白テントが張ってあった。近くの旧東ベルリン側のカフェで休んでいた時、前方の石作りの建物の壁面が銃弾でボコボコに穴があいているのが目に入った。第2次大戦時ベルリン市内は連合軍が壊滅の後に、なおも残された建物の銃弾の跡だった。苦しくなるような身体の緊張をいまだに覚えている。
人々の時代遅れの質素な服装や、痩せた身体と不安そうな顔。建物は厚みのあるどっしりした暗い色合いと、妙にけばけばしくヨーロッパとは思えないよう雰囲気の飾り窓が並ぶ。「ああ、東側に入ったのか」と、分かった。
その時、ドイツ人の友人と一緒に知人の家に食事の招待をされた。若い男性と中年女性のカップルの家だったが、友人の話によると、彼は東ベルリンから命がけで壁を突破、なんとか脱出できた。いつも精神的に不安定で、何回もずっと年上の女性との出会いと別れを繰り返しているという。心の傷は癒されることはなかった。「もう少し待てば壁はなくなったのに……と思うけど、しかし、それは後からだから言えることね」と友人。
東ドイツ出身のエヴァはもちろんのこと、ベルリン市民は決して忘れることがない。東から西への脱出を試みた192人の人々が射殺され、尊い生命が奪われたという歴史を。さらに脱出の際に命こそ助かったが傷を負って身体的にも精神的にも不自由な中で周囲を気にしながら生活している人々がたくさんいることも。
私が壁の崩壊からさらに15年後の10年前にベルリンを訪れたときは、街中クレーン車の林で、この状況を見るために工事現場の中に仮の展望台が作られていたくらいである。私もその展望台に登り、360度繋ぎでクレーンの林の写真を撮った。この写真をベースに作品をつくるか、または写真展を行いたいと考えてのことだった。その後すぐに他のアーティストによるクレーン車の写真展示会の案内が届き、「ああ遅かった」と、悔しい思いをしたことがあった。
「ベルリンの壁」があった当時の地図
東西分断の象徴とされていたブランデンブルグの門の前で(筆者)
残された『ベルリンの壁』にアーティストたちが描く
壁に描かれた日本の絵
「ホーネッカーとブレジネフの熱いキス」
「ゆらめき」の絵画
エヴァは長い間、社会人のための絵画教師を続けている。「私はこの仕事が大好きです。なぜなら、生徒たちからエネルギー受け、アイディアを刺激され、私自身が学ぶ事ができます。昔は生徒たちを引率して、イタリアやフランス、イギリス、ポーランドなどの美術館やギャラリー巡りをしましたが、今は経済的に難しく行っていません。習得していたポーランド語やフランス語など、しばらく使っていないので忘れてしまいました」と私との会話は英語で一生懸命話してくれた。
「子どもの頃から絵を描くのが好きで、いつもいつもどこででも描いていましたね。その頃から夢はアーティストでしたから、ベルリンの美術大学に入りました。最初はアクリル、そして油絵、メタルやプレキシグラスを用いたインスタレーションなどを手がけてきました。私にとって作品をつくる上で、大切なことは『エックスプレッション』(表現力―何をどの様に)だと思っています」
彼女のこの『エックスプレッション』から、作品から連想する日本語は「ゆらめき」であった。これは一体どういうことかと尋ねてみた。
「窓やショーウインドゥなどに映って見えるものは本物と偽物(実像と虚像)、またはその中間です。果たして、これはどちらが『真実』かは疑問です。見る角度によると作品そのものも変わります。絶えず変化して動いているのを見ることができるからです。つまりストレンジャー(不思議)を表しています。ブルーが好きで、このヴァリェーションが多いですね。今回のシリーズはミロワール(鏡)ですが、発想はショーウインドゥと同じです。動きのある絵で、小さなガラスのカケラからも動きがあり、それらに対する着目・知覚が大切だと思っています」と、私の「ゆらめき」を感じるアートをこのように説明してくれた。
期待と希望の都市
今年、私が4回目のベルリン訪問をしたのは11月11日、壁の崩壊の25周年が9日であった。ベルリンでは祝典気分が残っていて、ドイツ人はもちろん世界中から人々が訪れていた。
エヴァとは、私が96年に北ポーランドのアート・シンポジウムで彼女に初めて会ったときから18年の歳月が流れている。3年前、私がベルリンの画廊でドイツ人達との4人展をやった時に、オープニングパーティーに出席してくれた。その時以来の会話だったが、彼女はその間にもドイツをはじめポ-ランド、ルーマニア、中国、イスラエル、ボスニア、セルビアなどで作品を発表してきたことを、恥ずかしがりやの彼女がさまざまな方向から話をしてくれた。それぞれの国の文化や言語の違いを越えて、さまざまな政治情勢の中で作品を丹念につくって発表してきたエヴァ。
「作品をつくるために毎日闘っています。レスリングみたいにね。でも、良い『時』があることや、良い『チャンス』がいつかなど、知ることも大切なことです。このアトリエは朝、短い間ですが光が入るので、とても良い場所です。自然光で描きたいから。2016年の6月にはベルリンのギャラリーで開催される公式の芸術文化アート展に招待されています」と穏やかに話すその笑顔は自信に満ちていた。
私は次の展示会のために、3日間ベルリンに滞在して画廊主たちと打ち合わせをした。結果は16年の2月に私のグループ展での企画が可能となった。この話にエヴァは自分のことのように大変喜んでくれた。
ベルリンの主な画廊は旧西側だが、今は旧東側にも訪れるたびに新しい画廊が、しかも斬新な画廊がたくさん建設されている。街中にはやはりクレーン車は多く、改築や新築中の建物がたくさん目につく。落ち着くまでに1世紀以上かかるだろうか。統一されたベルリンは、ヨーロッパで最も活気のある街に変貌しつつある「期待と希望」の都市となった。
ベルリンにあるユダヤ教のシナゴク
ベルリンにあるボーデ博物館
エヴァと筆者
エヴァ。アトリエの作品の前で
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)