アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.40

創作作家(日本人形・折り紙)、琴・三味線奏者-木村 宇佐太郎【キムラ ウサタロウ】-人生の半分をフランスで生きた幸せ

春の陽射しがやわらかい日、パリ15区のメトロ「バラール」から歩いてすぐのところにある創作作家、木村宇佐太郎氏のアパルトマンを訪ねた。約40年間のパリ滞在中の彼は、私が知り合った当初の20年間は、パリの中心ポン・ヌフの近くや16区の民間のアパルトマンに在住していた。その後の20年間はパリのHLM(公営住宅・入居するためには狭き門である)でパリ生活を満喫しているようだ。ちょっと不思議な日本人木村氏はどんな理由でここに住んでいるのだろうか。独身の日本人男性がこのHLMに住めるということ自体が驚きである。しかも月々退職金も国から支給されているという。

木村氏はフランスをもっと知りたいという欲求で40歳代で日本を離れてパリへ。現在81歳で元気でコツコツと自分の好きな創作活動を続けているという。

木村氏の部屋で筆者と

木村氏のアパルトマンから町を眺める

木村氏(中央)の81歳のお祝い。左:筆者、右:筆者の夫Heri-OBER

フランス人から与えられたチャンス

「1974年に、青少年を対象にした50日間のヨーロッパ旅行の企画がありました。往復の飛行機(当時17万5千円)はみんな一緒ですが、現地はそれぞれが自由に見聞ができます。初めてヨーロッパを周った私は、自分の頭の中の外国に対する観念と現地で直接触れて見たこととは大きなズレがありました。その時、より深く理解するのには外国に住んでみることだとすぐに思ったのです。どこの国でもよかったのですが、結局フランスに来ることになったのです」

これが彼が約40年にわたりパリに在住するきっかけであった。それは木村氏もまだ想像していなかった個人史の幕開けとなった。

「2度目は77年、今度はパリに1年間滞在する計画をしました。両親を説得するための口実を探したところ、パリ郊外に手芸学校がありましたので、その学校へ入学するという理由で、とりあえず両親に認めてもらいました。しかも帰りのチケットもちゃんと買って、琴も離さずに持っていきました。琴は触れていないと指が動かなくなりますからね。もちろんそんな学校には1度も行っていません(笑)。スーパーがあり、朝市のあるパリではそれなりに言葉を必要とせずとも生活ができますが、手芸学校かフランス語を習う語学学校か迷い、結局は語学校「アリアンス・フランセーズ」に通いました。1年間の滞在では半端なので、その年の終わりに日本に帰ってさらに1年の滞在許可を両親からもらいました。それがこの歳になるまでパリで生活をするきっかけになったのです」

40年前のパリで周囲の人々は彼の得意とする分野をキャッチして見逃さなかった。それは当時パリにはほとんどいなかった日本人形の創作者で、琴・三味線の奏者である彼の持つ日本の芸術文化であった。それらは敏感に反応するフランス人たちを惹きつけたのであった。やがて木村氏の展示やコンサートを企画するフランス人たち、協力する日本人たちによってパリのさまざまな舞台に立ちはじめた。

「折り紙もやってくれと言われまして、日本人だったらみんな幾つかの折り方を知っているので、簡単にOKしましたら、フランス人の前で指導してくれということで大変でした。フランス語もあまり話せないのにね。簡単な基本の折り紙しか知らなかった私は、これは大変だと思いましたが、次第に面白くなり進化させて複雑なものを折る事ができるようになりましたね」

パリのコンサートで三味線を弾く

ボルドーの新聞に掲載された木村氏の記事

「フランス人は不器用」という嘘

私(筆者)は彼の折り紙展を見に行った事があるが、こんな折り方はどうやったら出来るのか、非常に複雑で中には1作品を折るのに数時間もかかるという作品もあった。それらのアートクラフトの作品は訪れる人々を魅了し唸らせた。すべてに対して全力でやり遂げるという強い意志や信念、そして実力の結果の作品であった。何よりも彼の感性プラスのびやかで優しい人柄からくる作品であった。さまざまな団体や個人から声がかかったのもよく理解できる。

「チャンスの1つは、1983年以降初めてパリを離れて折り紙や琴・三味線のコンサートでいろいろな地域へ行ったことでした。ある時ブルターニュ地方の図書館で折り紙教室を行った時、係りの女性が1人の老婦人の傍で通訳していたのです。終わってから女性にその理由を聞きましたら、老婦人はフランス語がよくわからないのでブルターニュ語で通訳していたのです。フランスといっても歴史的背景からくる地域によって、このような状況があることを、その時知りました」

フランス人の友人との折り紙2人展を8回ほど開催している。また、フランス在住の日本女性と琴の演奏会を開催している。振り返ると楽しい良き出がたくさんあるという。折り紙の指導はそれぞれの町からあるいは学校や図書館の日本展の企画で直接依頼されるが、50回以上もフランス各地を廻ってきた。

「特にサンジェルマン=アン=レー(*)で1クラスを8回から10回のコースで行いました。フランス人はまったく土台がない状態ですから、折り方を『覚えて』、そして『楽しむ』、というレベルまで持っていくのに最低必要な時間のコースです。この間に60点くらい作品を覚えて楽しんでもらいました。これは93年から6年間継続しました。日本人の間でよく言われていることですが、外国人は日本人より不器用だということですが、それは嘘です。決してそんなことはありません。子どもの場合、それは生活習慣の違いからくることです。その様な手の動きを必要としなかったからで、きちんと説明して教えていくと、器用に上手に折ることが出来ます」

この言葉は意外であった。私の夫もフランス人であり息子もいるが、彼らは不器用だと心のどこかに思っていて、日本人の私のほうが器用なのだと誇っていた。ちょっと胸の痛む思いで聞いていた。やはり私も根も葉もない固定観念に縛られていたのだ。

子どもたちの折り紙教室(パリ郊外の図書館にて)

パリで国際交流。折り紙を教える

パリでの折り紙展

パリの銀行で展示会を開催

日本を代表して子どもたちに伝える

「ミッテラン大統領の時、僕は10年間滞在できるビザがおりたのです。それまでは数カ月間単位での発券でしたからほっとしました。ある時、友人に会って私の仕事の話をしたら、『フランス人から稼ぐなんてすごい』と言われました。その時はあまりその意味が分らなかったのですが、後になって本当によく分かりましたね」

つまり外国人が稼ぐということ、とくに文化芸術面ではとても厳しいということである。財布の紐のキツイしまり屋のフランス人を相手に!私もよく承知していることである。

「しかし40年前と今では随分『日・仏』の関係が違ってきていると思います。40年前は子どもたちにとって、日本は全く未知の世界でした。今とは意味が違っています。あの当時、子どもたちは日本のことは何の想像もつかないでいましたから、どの様にして正しく日本という国を知ってもらうのか、とても悩みました。アジアと言えば、中国など世界歴史の土俵に上がっていて、ヴェトナムはフランスの植民地として知っている中で、日本の紹介をするのですから、変な事は言えませんでした」

私もヨーロッパの子どもたちに絵を教えたり、学生たちに慣れない習字を教えたりして日本文化を伝える場面を何度か経験している。彼も私も日本全権大使でもないのに「子どもたちには日本を代表している立場でしたね」と2人で思わず苦笑してしまった。

「ヨーロッパはコットン・パピエといって紙より布で作ります。作ったものを吊るし、立体的な筒状にする作業が多いですが、日本は木から紙で、たたむ、座らせるということで、これは材料の差ですね。鎌倉時代に上流階級に和紙を使用した日常の儀式は『折り紙』と言われていましたが、江戸時代になって一般庶民にも紙が普及したのです」などと私にも説明をしてくれた。これらをフランス語で講義しながらフランス各地で折り紙教室や琴、三味線の演奏などを披露してきた彼は、40年間もヨーロッパに日本文化を広めるために貢献してきたのである。

彼の創作人形は顔描きから、髪の毛(極細糸)を1本1本針で頭に縫い付けて、しかも髪結いをして、着物も縫って仕上げるのだが、この65センチサイズの人形は見れば見るほど心が奪われていく。

HLMに申し込んで半月で入居できたのも彼の特殊な才能から特別に許可がおりたと推測される。

私のグループ展のオープニングパーティでの琴の演奏を快く引き受けて下さったことがあった。展示会場でたくさんのフランス人たちが彼の演奏にとても喜んで聴き入っていた光景が、いつも私の胸のうちにある。

「人生の半分を良い思い出を作ってくれたフランスで生きている。私は幸せです。特に26年の間折り紙を通して触れ合うことができた多くの優しい人々と子どもたちに感謝しています」と木村氏。

それにしてもいつ会っても不思議な日本人である。彼そのものが「木村宇佐太郎」という創作品のような……。

サンジェルマン=アン=レー パリより西に30kmのサンジェルマン=アン=レー城を中心に発達した高級住宅地。このお城でアンリ2世、シャルル9世、ルイ14世、オルレアン公、等の王様が誕生。作曲家のクロード・ドビュッシーもこの地で誕生した。

創作中の人形の顔

人形創作のための材料布

創作した人形

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。