1946年中央フランスのコレーズ県キャブラックで生まれる。1970年パリ・ナンテール大学で美術、哲学の博士号取得。画家として抽象画の制作発表をする。メキシコで日本人陶芸家と出会い、また日本の茶の湯の精神に魅せられ、哲学・絵画の世界から一変し、陶芸の道を志す事になる。釉薬が抽象絵画のような景色で、形式にとらわれない造形に独自の価値観を発揮する。
私(筆者)は何回かパリで彼の陶芸展を見て面識はあった。作品は自分の内から何かを訴えているように迫ってきた。作陶家アンドシュ・プローデルはアメリカの映画監督スティーヴン・スピルバークに似た顔立ちで、優しさと遠くを見つめるような寂寥感のある高い精神性を感じさせる人だ。
パリの中心に近いシャトレの近くの古いカフェで話を伺った。すぐ先にセーヌ河、サントシャペルそしてノートルダム寺院がある。このカフェはダルタニアン(*1)の結婚パーティーが行われた所とか。この辺は歴史的に由緒ある建築物が並んでおり、中世のパリに引き戻されるような通りでもある。
筆者トモコとアンドシュ
シャトレ近辺の古い街角
17世紀の建物のカフェでインタビュー
ラスコー洞窟の壁画を見て育った少年
彼の出身地コレーズ県は丘や渓谷などある起伏の富んだ地形で、近くにはラスコーの壁画(*2)のある洞窟がある。
「家族は農場を経営していて私は自然あふれる田舎で育ちました。少年時代はデッサンが下手で美術には興味がなくごく普通に過ごしましたが、学校でよくラスコーの洞窟に連れて行かれました。何回も何回も見ましたよ。1963年まで一般公開されていましたから、もちろんオリジナルの洞窟の壁画です」
私も約25年前に車で行った事があるが、やはり不便な所で、まるで隠されていたかのような場所にあった。だからこそ発見も遅くなり洞窟は保たれたのであった。私が見たのはオリジナルが朽ちていく前に1983年に作られた「ラスコー2」であった。現物の3分の2の複製であった。顔料はオリジナル同様にして、洞窟に入る人数もガイドと数人の見学者に限定していたが、それでも長く原画をとどめておくのは難しかった。今は「ラスコー3」がオープンしているが、長持ちさせるために顔料は自然からのものではなくて、強力な人工的なもので作られたそうだ。そして初めて洞窟全体を複製した「ラスコー4」が今年中にオープンする予定だ。
「18歳の時に自分の進路を決めなくてはいけなくて、パリ・ナンテール大学に入りました。しかし、ちょうどパリ5月革命(*3)が起きて、勉強らしいことはできなかったのです。専攻は美学と哲学という理論的な学問です。実際に絵を描くことや写真を撮ることは独学で習得しました」
フランスは1990年代に徴兵制が廃止になり志願制になっているが、当時行われていた兵役の代わりの僻地での奉仕活動を、彼は大学を卒業した後に選択して従事したという。
「約2年間アフリカのガボン(旧仏植民地)内陸のマコクの大学に赴任して、絵画理論と哲学の講義をしました。生徒のほとんどが私より年上でしたし、いわゆるジャングルの中で生活しましたが、私にとってはとても良い体験となり、その後の創作活動にも影響したと思います。それから78年から82年の間、絵画制作のためにメキシコに滞在しましたが、ここで日本の陶芸家ショウゾウ・タニダに出会ったのです。そのことが私の人生の転機となりました」
約1万5千年前のラスコー洞窟の壁画を見て育った少年が、やがて焼き物に興味を持って21世紀に土の芸術作品を世に送り出している。
陶芸はスリルとサスペンス
「ずっと自分は何がしたいのか何をするのか、探し求めていましたが、それが陶芸だったのです。ショウゾウ氏に手ほどきを受けました。しかし、彼は『日本に行くのが一番良い』といつも言っていました。経済的な余裕がないので、国費留学の手続きで日本へ行こうと考えました」
留学の条件に日本語が話せることという項目があった。すぐにパリで日本語を習い始め、92年に日本へ国費留学をすることができた。
「兵庫県に行く事ができました。1年目くらいまではパリで絵画や版画の個展も開催しましたが、その後はずっと陶芸及び写真の作品で個展をしました」。93年に、東京、大阪、奈良で個展を開催、その後、毎年日本で開催している。
「私はタピエス(*4)の様なボリュームのある作品が好きなのですが、私の陶芸も、抽象画でボリュームのあるような作品です。陶芸は火が加わるので、良いときも悪いときもあり、何度やってもスリルとサスペンスです」
仕事はコレーズのルビニヤックというフランス南西部の田園風景が広がる小さな村で行っている。
「場所も広いし自然も豊かで美しい村です。精神的にとても落ち着きます。パリに来るのはヴァカンスや展示会のためです」
土はそこで産出する赤土を低温で焼き、黒土は高温で焼くという。ラスコーまでたった17キロの所で村から約80キロ北のリモージュで磁器の土は手に入るという。彼は、日本とフランスの陶器はまったく異なり、大昔からのラスコー内の土器と縄文土器も全く違うということを強調していた。
「材料によって焼く窯の種類が異なりますが、今は5種類の窯があり、電気、ガス、また、いろいろな木で焼くシステムがあります」
私は昔から彼のパートナー九鬼恵依子さん(現エスパース・ベルタン・ポワレのキューレーター)は知っていたが、直接彼女についての話を伺うのは初めてであった。
「妻はマレ地区(パリ市内)で日本の工芸のギャラリー『KOUKI』を経営していました。ギャラリーで私の作品を扱ってもらい、日本文化・芸術の話などを聞いては質問したりしていました。その頃の何年かは私たちは英語で会話をしていましたが、今はフランス語になりましたよ」
日本のデパートでの個展で、作品の前で
日本とフランスの「陶芸」
ルーヴル美術館で日本とフランスの陶芸に関する講義を89年から2011年の間、開講してきた。
「日本とフランスでは陶芸への自由に対するコンセプトが違います。もちろん、両者とも自由なのですが、日本の場合、幅広い市場があり、焼き物は昔から日常生活と密着しているからだと思います。フランスの場合は、芸術作品としての陶芸が評価されることが多いので、陶芸家は工場生産のような雑器はフランスではあまり作りません。日常雑器としての焼き物と芸術的な作品も制作するという事で、日本の陶芸家の方が自由といえば自由かもしれません。しかしアーティストがアルティザン(職人)をも兼ねているのはこちらでは考えられません。ですから芸術作品として自分の作品で食べていけるフランスの陶芸家は数えるほどで、とても難しいです」
彼の以前の作品は球状が目立ったが、地球からさらに広遠な惑星圏の初期の創造から収縮、破壊、消滅を土と火を通して実験しているように見える。それは変化と脆さが伴う作陶だからこそ可能なのかも知れない。少年の頃からいつも目にしていたラスコーの壁画の色彩、形態も、彼に太古の記憶を蘇えらせたのかも知れない。
「現在は卵形になっていますよ。もうすぐベルギーのブリュッセルでの個展があります。また、日本での個展は、毎年2回開催しています」と、エネルギッシュに活躍している。彼の作品のコレクションは日本を含め世界中の美術館で展示されている。
インタビューはいつものようにフランス語であったが、最後に私は日本語で「日本語は今は上手ですか?」と話したら、「いえいえ、そんなことはありません」と流暢な日本語が返ってきて、その後の会話は日本語で十分であった。
1)ダルタニアン(1615-1673) フランスのブルボン朝に活躍した軍人。アレクサンドル・デュマの「三銃士」「ダルタニアン物語」に書かれている。
2)ラスコー洞窟 フランス南西部ドルドーニュ県にある先史時代の洞窟壁画。1940年に発見された。たくさんの動物・幾何学模様の彩画・顔料を吹き付けて刻印した500点もの人間の手形等が残されている。1万5千年前のいわゆるクロマニョン人によって描かれたとされている。
3)パリ五月革命 フランスの五月革命は、1968年5月10日に勃発した、パリで行われたゼネストを主体とする民衆の反体制運動と、それに伴う政府の政策転換を指す。事件の発端は66年に起こったストラスブール大学の学生運動で、ナンテール大学に波及し、68年3月にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。(参照:ウィキペディア)
4)アントニ・タピエス(1923-2012) スペインの現代芸術家。パリで活躍した。20世紀の現代美術の巨匠の一人といわれている。ミックス・メディアの創始者で粘土、大理石粉を絵具に混ぜ、廃紙、糸、絨毯を使用し、重厚で静謐な作品を作った。
Photos: Denis Durand/ galerie Copazza
茶碗 楽焼DM
茶碗 楽焼DM
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)