パリに留まる
「母は私の生まれた40日後に亡くなり、父と祖母が育ててくれました。12歳で家族皆で首都のカイロに転居して育ちました」と、半生を語りはじめるイザック。ファラオン(古代エジプト君主の称号)の冠を頭上に載せたらさぞかし立派な王に見えるだろうと、つい想像してしまう風貌である。
「今年1月にエジプトで暴動が起り政府も責任者もいなくなって、私は帰れなくなり、パリに留まざるを得なくなったのです。無気力になるのは嫌ですからね。いつものように仕事をやりました。4月に全ての手続きを経てパリに2箇所のギャラリーをオ-プンしました。しかし、やはり母国を思うとつらく、また、パリでの新たなオープンは大変でした。しかしこれは神が私を後ろから押したのです」
彼はコプト正教徒(原始キリスト教の一派)である。エジプトの10パーセント位がコプト教であるが、過去数回にわたり過激派回教徒から迫害され虐殺されている。
イザック氏の個展会場(パリ)で筆者と
イザック氏デザインの椅子が展示されている美術館
妻とアートセンターを設立
イザックは若い時イタリアの建築家Gil Detoriに出会い「創作と自由」を学んだ。「彼の影響は私の現在まで引き継がれている大事な柱です」。芸大を卒業後、エジプトの著名な映画監督シャディ・アブサラ-ムの下で助監督をして、32本の映画制作をした。他にモードやブティック、ホテル、別荘、レストラン、カフェ等の建築や室内装飾を手がけたりもしている。「200室以上あるヒルトンカイロホテルとカジノホールに携わったことは私のとって大きな収穫でした」
仕事は高く評価され、たくさんのお金も入ったという。「それで現代ア-ト作品のコレクションを始めたのです」
1965年、イザックは22歳で同級生の建築家ア-ティストと結婚。69年カイロにデザインセンタ-設立。71年兵役の5年間イスラエル対エジプトの戦争も体験している。「この間、妻は私の設計事務所を切り盛りしてくれました。今、息子も娘も設計建築ア-ティストです」
80年にEl Shona(エル ショナ)アートセンターを設立。地中海のそばのアレキサンドリアに1800メ-トル四方の土地とプライベートビーチを購入して美術館を建設。エジプト陶磁器現代美術館、シバの服飾と宝石美術館、現代ア-ト美術館、 彫刻美術館、世界子供絵画インターナショナル・アレキサンドリア美術館、国内児童美術館(児童の早期創作の発達のため)、人類デザイン美術館と32のアトリエをカイロとアレキサンドリアに建設した。
エジプトでの企画で俳優ロジャー・ムーア(中央)夫妻に解説するイザック氏(手前)
エジプトのイザック氏の美術館
いつか真実が分かる
「美術館やギャラリーは、自分のコレクションと新作を展示するために、81年から04年の間に建設しました。私は15歳で個展が開催できたのは、先生の考えによる、『自由に、いつでもどこでも作品を創る』、という発想があったためです。だから私が受けたものを恩返ししたいと思いました。こどもたちに自由に創作してほしいと思ったのです」
84年にカナダやアメリカに行った彼は、アメリカのディズニ-ランドを見て思った。そこは「こどもたちにどのように、いかに楽しんでもらうか」という壮大なコンセプトであった。帰国後、こどものためのアトリエ、美術館、コンクール等を次々と企画設立していった。
「仕事、それは美しいものを発するメッセ-ジであり実に深く、愛と平和を含んでいる」。現在、彼を取り巻く人たちには彼は雲まで上ったかのように見える。「これから海の深いところまでに行きます。それは真実を見つけるため。神は、人間に創作する知恵を授けた。ア-トは私にとって健康を維持するための薬のようなものです。こどもが遊ぶように、ピカソがこどものように描くように、創作を楽しむためです。そうすればいつか真実が分かるかもしれない」
イザック氏(左端)の美術館で
エジプトのこどもの美術館
こどものための展示会の受賞式でメダルを授与するイザック氏
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)