ペレストロイカ以前の混乱期のモスクワに生まれ、反体制の家族や友人たちの中で成長したアーティスト、マーシャ・ヴォロディナ‐ヴィンテルステイン。彼女の生きてきた個人史は私の想像を絶する過酷な道のりであった。それはその後移住したパリでの困難さに通じていて、彼女の中でまだ戦いは終わっていなかったのだ。
マーシャを取材した約2時間の凝縮された彼女の人生は、その後、私自身が闇に引き込まれたように気が滅入ってしまった。
マーシャの自宅のアトリエで筆者(トモコ)と
マーシャ。自宅のアトリエで
アトリエで作品をつくるマーシャ
現代の「イコン」
マーシャから展示会がパリ19区のサンジャン・バティスト・ド・ベルヴィル教会であるという通知をもらって行った。久しぶりに会い、作品を見ることができた。厚さ5、6センチメートル、サイズは大、中サイズであった。材料を何重か重ねて制作した半立体の作品は重厚であった。
「私は、いつもテーマを決めて作品を作りますが、作品の柱は強さの構築でそのためのハーモニーが必要です。見ていると音も聞こえるでしょう?色々なマチエール(材料)が奥へ導いてくれます。材料はあえて細かい物から大きな物まで『捨てられた物』から作っています。土台となる板も、外に捨てられてあったドアや窓枠などを使っています」
絵の具の材料は、オイル、アクリル、墨など、材料は木、画布、ガラス、鉄、紙、プラスチックを特殊な糊や人口樹脂、ドリル・セメントなどで接着した。「それらのあらゆる物の集合体です」
作品の中の蝶はキリスト者の根本原理である復活や天使を表現しているという。鈴や鐘の音は魂へのメッセージ。数字は聖なる数字であった。風の音と迷宮のような人生を作品に込めている。
実は、作品について情熱的に説明する彼女の一つひとつの言葉は、マーシャの人生の凝縮であったのだ。私は作品を見ていて、これは正に現代の「イコン」だと思い、彼女に話すとにっこりと笑った。
自宅にあるアトリエは、拾ってきた材料で足の踏み場もなく、正に画家のアトリエで「アリババの洞窟」(フランスではゴチャゴチャしたこのような状態を表現する言葉)のようだった。
サンジャン・バティスト・ド・ベルヴィル教会
ベルヴィル教会内部
教会での展示会のオープニングで
教会後方部展示ホールで作品をはさんでマーシャ(左)と筆者トモコ
会場の教会展示ホール
もっと自由に
「私は1964年にモスクワに生まれました。祖父は絵描きで、映画広告なども手がけていたそうです。祖母はポーランド人でした。父はロシア人で映画監督でありシナリオライターでもあり、文章も書いていましたがデッサンも描いていました。私も5歳の時には父のそばで一緒に描いていましたね。母はピアニストでしたが、私が7歳の時両親は離婚しました。それ以来、父には会った事がありません。私は画家になりたかったけど、母に画家の人生は難しいし、特に女性の場合とても困難だから、他の女性のように、例えば看護士さんなどになるように言われました。このような職業の選択が当時の国の方針だったのです」
取材を進めるにしたがってマーシャは個人史、家族史を語り始めた。それは驚くべき歴史の証言でもあった。
「母のすすめに従って私は看護学校を受験しました。入学試験の帰りに母と私の前に、母の友人の詩人で舞台俳優のヴィソトスキー・ヴラジミールに会ったのです。『やあ、マーシャ。君は描くことや芝居が好きだったよね、もちろんそっちに行く準備をしているんだろう?』と彼が言ったのです。母は友人のこの言葉に深い衝撃を受けました。この瞬間、母は分ったのです。国が決めた方法や考えに沿った人生ではなくて『もっと自由に』と」
当時はソビエト連邦共産党による一党独裁制であった。体制は60年以上も続いて情報公開もなされないまま、物資の不足による国民の生活は困窮していた。
「私がヴィソトスキーの舞台で見たハムレットなどの芝居に出会った舞台俳優が、私にとって人生の指導者のようだったのです。彼は国立舞台学校の教授でもありましたが、彼は41歳で亡くなりました。当時のソヴィエトは私の生まれた時から1980年の後半まで経済的に最低に落ち込み、貧困と希望を失った人たちのはまるアルコール中毒者であふれていました。教会に入るのも禁止され、詩人、歌手、画家たちは弾圧されて、多くの仲間たちが精神病院に強制入院させられて、命を落としました。それはゴルバチョフ政権に代わる1985年以降のペレストロイカ(再構築=政治改革)の実践まで続きました。
流浪の生活
1990年にマーシャの母は旅行者として初めて西ヨーロッパに行き、自由の息吹を初めて肌で感じることができたという。同年にはシングルマザーであったマーシャは4歳半の一人娘を母に託し、一人でトランク1個を持って列車に乗り込み2晩かけてパリにたどり着いた。お金がないので空きアパート(スクワット)の一室に勝手に住み込んだという。「自由人」と称する人たちと住むが、何回も追い出されては他のスクワットへ移動したり、路上生活を余儀なくされたという。
何年も前から彼女のような難民や生活困窮のアーティストたちが住んでいるが、アル中や麻薬中毒者も多い。しかしア-ティストの意見を取り入れながら、パリ市や国が建物を修理しアーティストに利用してもらう所がたくさんあり、私の友人の作家も何人か住んでいる。
「でも、フランス人をはじめ、たくさんの他国の人たちに、食べる事と寝る所などで助けられました。2年間はアフリカのミュージシャンと組んで、歌を歌ってその日の生活を何とか維持してきました」
マーシャはモスクワで生活のためにやってきた歌、演技、ギター演奏、朗読、作詞そして絵画などの武器があった。それらのすべてをパリで生きるために出し切っていた。
「自由を手に入れましたがその間のパリは流浪の生活でした。飲まず食わずのような2年半でしたね。娘にも母にも会いにいくことができなかったのが、何よりも辛かった」
ある日、マーシャはぼろぼろになった小包を受け取った。小包の宛て名には「マーシャ、歌手、ロシア人、スクワット住まい」とだけ書かれていた。なんと懐かしい母からの小包を受け取ることができたのだ。あちこちのスクワットに回されて、多くの住人の手元に渡ったにもかかわらず、これだけの宛て名で奇跡的にもマーシャの手元に届いたのであった。
「人々の善意と娘を思う母のエレルギーの強さがあったように感じました。後に母から聞いた話によりますと、母は周りの人たちに、マーシャはもうとっくに死んでるよと言われていたみたいでした。母の執念のような小包がとてもありがたかったですね」
定住の地パリで家族と
その後、マーシャはパリ郊外の演劇学校での指導の依頼があり喜んで引き受けたという。しかし、そこは若くて大変な問題児ばかりの演劇学校だった。
「苦労しましたが、お給料は良かったので経済的にはとても助かりました。余裕ができたせいか、その後私に『テアトル・デュ・ソレイユ』(*1)から話がありテストに受かりました。まず見習いからはじめ、オーディションやコンクールを受けて、本格的に舞台に立つことができたのです。給料は最低賃金並みでしたが、寮に住むことができました」
彼女は劇団での舞台の他に、ジプシ-のギターリストたちとキャバレーで歌を歌ったりギタ-を弾いたりして稼ぎながら芸を磨いていた。
「同じキャバレーでダニー・ブリアンなどの有名な歌手も出演していましたよ。そうして何とか生活の目途がついて、やっと母と娘を引き取ることができたのです」
しかし彼女も母も娘も滞在許可書がない状態で密入国者として不法滞在のままであった。「私など逃亡者ですからね。私たちが正規にパリに住むための書類が大変でした」
3人が落ち着いたパリでの生活がはじまったある日、彼女に舞台のデッサンや背景を描く仕事が舞い込んできた。
「一生の仕事だと思い引き受けたのです。94年には芝居は止めて、2000年以降は創作だけに絞りました。なぜか分りませんが舞台がイヤになったのです。この作品の中にシンボルとして詩的な文や芝居が入っていて、まるで私が監督のようでしょう」。
彼女は操り人形的な女優業や生活のための歌手ではなくて、自ら創造するい欲求があったのだった。
「モスクワにいたソ連時代の体制下で教育された若い時の私は、無神論者でした。宗教は人を奴隷状態にすると。国は呼吸が出来ないほど人を圧迫するし、国旗の赤は血を感じていた。母に教会に誘われても行かなかった反教会の私が、14歳の時偶然に教会に入ったら、最高の至福感を味わったのです。その後、洗礼を受けました。トモコ(筆者)が私の作品を『現代イコン』と感じたことも、私の生きてきた背景に関係していると思います」
今は別れたジプシーミュジシャンの夫との間の娘レナタと2人暮らし。3部屋あるアパ-トは市からただ同然に安く提供されている。レナタは生まれながらの腎臓の病気でテーブルに薬が山の様につんであった。長女は現在ロンドンでパートナーと暮らし、マーシャの母は近くに住んでいて毎日のように電話をしたり会ったりしているという。
マーシャは「私は二度と祖国には帰りません」と、強く言ったのが印象的だった。祖国を離れ、すでに26年が経過している。
1)テアトル・デュ・ソレイユ 1964年にフランスの女性演出家・映画監督のアリアンヌ・ムヌーシュキンの設立したパリ12区にある劇場。
マーシャと娘
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)