2011年にドイツ人の友人の紹介によってベルリンの「ギャラリー・ベルリン‐バク」(バクは現アゼルバイジャンの首都)で開催した4人の作家展に参加したことがあった。私(筆者Tomoko・K.OBER/フランス国籍日本人)とフランス人、ポーランド人、ドイツ人の作家たちの展示会であった。ギャラリーの当時のオーナー、エブラヒム・エラリ(妻はオランダ人)はベルリンに根をおろしているアゼルバイジャン人であった。絵画の知識も深く、美術家らしい眼差しが印象的であった。ギャラリーに適した場所と空間はさすがにオーナーの力強さを感じたものである。豊かな包み込むような人柄とあわせて、アーティストとしての強いプロ意識を持ってベルリンの芸術文化を担っていた。ぜひ、いつか日本人のグループ展をこのギャラリーで行いたいと心から願ったのである。
4つの部屋を持つ広い空間のギャラリー
オープニングで挨拶するパーヴァネ。アゼルバイジャン大使館文化担当者のサラ・アバソヴァ(右)、と日本大使館文化担当者の岩渕 系(左)
オープニングで挨拶する岩渕 系。後ろの作品は樋口 郁(N.Y.在住/左から3番目/他4点出展)の大作(3.65m×2.13m)
パーヴァネ(左)と岩渕 系
右から、パーヴァネ、筆者、岩渕 系、樋口 郁、エブラヒム
展示会オープニングには、たくさんのドイツ人の中にアゼルバイジャンやアジア系の人たちも訪れていた
日本とアゼルバイジャンの作家展
再びこのギャラリーを訪ねたのは3年前の2013年であった。久しぶりに会ったオーナーに、「世界で活躍している日本人の女性作家(パリ、東京、ニューヨーク在住)4人展を」を開催したいという私の希望を力説した。趣旨を賛同してくれたオーナーは「アゼルバイジャンの作家4人との8人展ではどうか?」と提案してくれた。なぜなら、ギャラリーではアゼルバイジャンと他国の作家との国際的な合同展を何度か企画していたからであった。2016年には私の協力で「日本とアゼルバイジャンの作家展」を企画してくれるということだ。私は思ってもいなかった嬉しい申し出に喜んで準備をすすめていったのであった。
オーナーはその時の企画展のためにと、彼の娘のパーヴァネ・エラリを紹介してくれた。彼女が父親の仕事を引き継いでいくことを知らされ、それからは展示会の準備のために彼女と連絡を取り始めたのだった。
今年2016年10月26日~11月7日「ギャラリー・ベルリン‐バク」にて「日本とアゼルバイジャンの作家展」を開催するに至った。3年ぶりに会ったパーヴァネをインタビューしながら、彼女の父親に企画を希望してから約3年の歳月を経て展示会開催の実現に至ったことに感無量であった。
私自身このベルリンは約22、3年前にフランスのアーティストたちのアート・サロンに参加して来たのが最初だった。それはベルリンの壁(1961-1989)が崩壊してから5年後くらいだったので、解放されて間もないような混沌とした状況の東ベルリンを垣間見る事ができた。あちらこちらで巨大な黄色い建築用重機のクレーン車が林の様に連立していたのも印象に残っている。建物の壁に無残に残る弾丸の跡、人々の質素な服装とやつれたように痩せた人たちを見て、西ベルリンとの大きな差を実感したのだった。
綾崎りっか(パリ在住/左/他4点出展)と彼女の作品
筆者と作品(他4点出展)
自由に飛ぶ華やかな蝶
私のインタビューに答えてパーヴァネは個人史から語りはじめてくれた。
「父(エブラヒム)は画家でした。ウルミアの南アゼルバイジャン(現イラン)で生まれました。バクとベルリンで美術を学び、やがて美術教師として指導するようになりました。結局、ベルリンに移住した父はオランダ人の母と結婚したのです。ですから、私はベルリンで生まれ育ちました。私はギリシャのアテネの近くでツーリスト・マネージメントを勉強しまして、ギリシャの幾つかのホテルで専門を生かしてやりがいのある仕事につきました。私は人とシステムを調整する仕事に向いていたようで長い間その仕事に没頭しました。やはりギリシアは観光を含め人種の坩堝(るつぼ)でした。そして3年前にベルリンに戻り父の画廊を継いだのです」
今までのヨーロッパ・ユニオン・マネジメントの仕事と画廊の仕事は「どちらも人との関係ですから、絵画は父親の影響をかなり受けていますね」と話す。
「絵は子どもの頃から大好きでしたよ。学校では1等に入選して表彰されたりしましたが、卒業するとスパッと止めて別の道にすすんでしまいました。『家族の中に一人のアーティストで沢山だ』と言う誰かの言葉がありますよね(笑い)」
彼女はドイツ語、英語、アゼルバイジャン語、イタリア語、ギリシャ語、オランダ語を話すことができる。フランス語、ロシア語、アラブ語も少し話せる。日本語、中国語も片言くらいは話すという。まさにツーリスト・マネージメントの仕事には適した語学力の持ち主であった。アゼルバイジャン人の父とオランダ人の母の間でベルリンで育ち教育を受けたということから、さまざまな文化の中で育まれて十分なインターナショナルな頭脳が培われたのであろう。
「日本にも旅行しましたよ。千葉、横浜などに行きました。興味深い文化の中で日本人を少し知る機会を得ました。沖縄にも行きましたが、とても良い町でした。楽しい旅行でした。機会があればまた行ってみたいですね」と嬉しそうに話してくれた。ちなみにパーヴァネと言う名前の意味はイラン語で「蝶」である。とっさに思い出したのはプッチーニ作曲のオペラ「マダム・バタフライ」であった。しかし悲劇ではなくて大空を自由に飛ぶ華やかな蝶である。
グローバルギャラリーを目指す
ギャラリーの雰囲気はとてもシックで落ち着いた雰囲気があり、ゆったりと余裕があるように見える。
「コレクターも沢山いますので、ある意味では安定しています。ただしアゼルバイジャン国からのプロジェクトの場合は、もちろん少しの補助があります。以前から始めたアゼルバイジャンと他国の作家との合同展のプロジェクトは、とても成功しています。国の制限はありませんので、世界中の選ばれたアーティストが展示会に参加できるのです。今回で6回目ですが、両国の大使も招待しスピーチをして頂いています。また私は両国のアートの紹介だけでなく、作家の意思や国の文化、歴史等の説明もします。来訪者は他国にとても興味を抱いて来てくださいます」
単なる画廊ではなく一種の文化サロンの役目も担っているという。「各国との展示会は一種のアートのショーでもあります。そしてノー・ボーダー、つまり国・年齢・性別・有名無名等の境界線や国境がないことです」彼女自身がグローバルで心が大きく開いており、人と作品のショーをしっかりと捕まえている。
「作家に対してはあまり問題はありませんが、見極めて再認識するという作業が必要です。インターナショナルな人がインターナショナルな作家を紹介しているケースがほとんどです。私に外国語と外国での仕事が合っていたこともありますね」
父親が無名ギャラリーからスタートしたのでコンセプトが難しい所もあるとも話す。「一般の画廊は伝統的なものから現代的なものへという志向ですが、これ等をミックスしても良いではないかと考えています。エキサイティングな集合体が出来るのです。それは一人ひとり全く違うからです。ですからユニークさがコンセプトになっているグローバルギャラリーを目指しています」
今回の日本の作家たちとのコラボレーションについて「例えばTomoko・K.Oberの作品は『ミクロとマクロの世界を宇宙空間に』、樋口 郁は『ナチュラルとスピリチェルの統合』、綾崎りっかは『色彩の奥へ』、一ノ瀬智恵乎は『歴史の古代から現代へのつながり』と、それぞれ4人が全く異なる世界なので、とても満足しています。トモコが選んだ作家たちは全員インターナショナルな感性であることが大事なことだったと思います」
オープニングは沢山の人が列席してくれた。パーヴァネの素晴らしい挨拶とベルリンの日本大使館文化担当者の岩渕 系(いわぶち けい)とアゼルバイジャンの美しい女性文化担当者のサラ・アバソヴァ(Sara Abbasova)が出席して、それぞれの国の言葉と素晴らしいドイツ語で挨拶が行われた。最も遠くて異なると思われる二つの国の芸術文化が、すべての壁を越えてベルリンで結ばれた記念すべき日でもあった。
アゼルバイジャン カスピ海の西側、首都バク。西にアルメニア、ここにアゼルバイジャンの飛び地やお互いの国に他国の人たちが住んでいるということで、長い間民族や宗教対立が続いている。北にロシア、ジョージア、アルメニアの隣がトルコそしてギリシャ・ブルガリアへと続く。南にイランという多国が隣接する地である。
オープニングに来られなかった一ノ瀬智恵乎の作品(他3点出展)
ベルリンの象徴「ブランデンブルグ門」
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)