アーティスト、イク・ヒグチさんとは10年前、ベルギーの首都ブリュッセルの展示会場でお会いし、昨年ベルリンの画廊で再会した。今年1月に彼女の企画でニューヨークの128画廊(オーナーはKazuko OMIYA 画家・現代舞踏家)で3人展「Iku HIGUCHI、Kunio IZUKA(*1)、Tomoko K-OBER」と、さらにサロン展の2カ所のニューヨーク展に招待を受けて出展した。私には3回目のニューヨーク市での展示会であった。一回目はツインタワーが存在していた時、二回目は9・11で巨大な穴が開いていて工事中の時。そして今回、私がニューヨークに着いたのはトランプ大統領就任2日目であったが、初めてニューヨークの日本人コミュニティーの人たちに会って彼らの特別な感情や感覚を一部分だが知ることができた。
パリでは、またヨーロッパなどでは考えられないアメリカならではのコミュニティーである。アメリカは各国の人たちが自らの国をアメリカの地につくった。祖国の言葉・習慣など諸々をそっくり運び、そこに自分の国を移植し生活している。そのこと自体が良いとか悪いとかいう事ではなく、この新大陸はその方法で成り立ってきたのだし今後もそうであろうと思う。
アーティスト、イク・ヒグチ。作品の前で
イク・ヒグチの作品の前で筆者(右)とイク・ヒグチ
「3人展」の会場で、アーティストの3人。奥のオレンジ色の「はにわ像」はイクの作品
飯塚氏(中央)の作品の前で。「3人展」のアーティストたち
子どもの頃からの夢を実現しアメリカへ
「黒潮を見ながら、太陽の沈むその先には何があるのだろうといつも思っていたのが、アメリカに来た理由です。とにかくアメリカに行きたかったのです」と、和歌山県串本町で生まれ、潮岬から雄大な太平洋を見ながら育ったイクさん。
その後、兵庫県の神戸市に引越して青春を謳歌。1980年にボストン美術大学に留学することができた。
「チャンスがあり、子どもの頃からの夢であったアメリカに来る事ができたのです。英語は大学内の夜間の英語コ-ス(ESSL)で学びました。4年間のボストン美術大学終了後、1年間教授のアシスタントをしてから、さらにセラミック彫刻を学ぶためにハーバード大学で化学を学びました。それは火、土、色を化学的に研究しないとセラミックはつくれないからです」
その後もマサチューセッツ大学でペーパー・メイキングとペインテングを学び、ブロンズ彫刻やステンドグラスのガラス工芸等も学んでいる。
「土を触った事がなかったのですが、アレルギーで手を腫らしながらも粘土をこねましたよ。宇宙空間を彫刻で埋める事によって変化するインスタレーションの面白さを知ったのです」と、まるで宇宙を創造するように、立体的で広大な物造りを目指していた若い時の創作エネルギーを語ってくれた。
イク・ヒグチの1990年代の作品で、彼女の考案した油彩にセラミックのクレイ・パウダーをかけたもの
ニューヨークでの創作
「1991年にニューヨークで新しい生活を始めようと思い、友人も住んでいたので現在の家に引っ越してきました。もう26年になりますね。それまで在住していたボストンは研究者や高度な学者の街という感じで、精神性に開眼させられましたね。ニューヨークは汚くて犯罪も多く騒音も激しく、慣れるために10年もかかりました。なれない騒音から逃れる様にスタジオにこもって作品をつくりました。このニューヨークの町はそれが適したところです。みんな人のことはかまわないので集中できるのですね。ここでは彫刻から絵画に変更し、新しい空間を知りました。この事は、今までの3次元より2次元の世界の方が知的興奮があり、違った意味での広がりや難しさがある事が分かったのです。工程から仕上げまで知的興奮にひたり、わくわくと集中し、哲学や心理学要素をも時には要求されるので、それらは宗教的(スピリチュアル)なものを内面が欲し、自己の中に吸収し、それをキャンバスに乗せることを知ったのです。これはおもしろいですよ」
「作品作りをするための感性、イメージ創り、やわらかい何物にも捉われない自由なのびのびしたイメージが沸き起こってくる事が基本であり、この要素をもっと伸ばす為にはどうすればよいか、頭脳に哲学、宇宙の捉え方、その上宗教的な考え方(たとえば、ウイリアム・ブレイク)、を詰め込む事によりファインアートを捉えられるように思えてきたのです」
彼女はファインアートのとらえ方を今一度しっかりと学びたいと、ペンシルバニア美術アカデミーで修士号を取るべく大学院コースを取り終了している。
「大学院のコースにより人間の魂の奥深く眠っているものが浮き上がり、そのイメージは我々人間の想像もつかない神の世界に限りなく近く深いものであると核心に至りました、神それともNature!! 私は神を使う方が好きです」
それから彼女は「アメリカの法律の3大原則」を話してくれた。個人がプロテクトしている事、メイフラワー号に乗ってイギリスから移民してきた事の最大の要因は、宗教の自由を求めて、そのために人々は新天地を求めてやってきた。プロテスタントがイギリスで大変な迫害に遭い信仰の自由を求めてマサチューセッツのボストン南のプリマスにメイフラワーが着いたときに(この最初の移民グループの人たちがピューリタンと呼ばれた)、この人たちが法律を作るときにベーシックに「個人の自由・個人の繁栄・個人の平安を犯すものは罰せられる」と明記。「時代の支配者が微妙に解釈を変えているが、基本的な法律では3大原則は守られている」と話す。
スピリチュアな体験が創作にプラス
ブルックリンにアトリエを所有しているが、大きい作品をつくるために何回か大学内のレジデンスに入る必要があり、各州を回り年に2回ある難関テストを突破。1ヶ月~3ヶ月間レジデンスで大作をつくることができたという。
私(筆者)は、マンハッタンの東側のイースト・リヴァーの近く(対岸はブルックリン)にあるイクさんのアパルトマンにお世話になったが、河沿いを北に散歩すると30分位の所に国連本部があった。3人展の画廊は少し南のイースト・ヴィレッジその先がイタリアタウンやチャイナタウンなどがある。
「私は今まで日本とアメリカが地続きのような感じに思えて、海外に来たと言う意識はなかったのですが、昨年、ベルリンに行ったときに『私は日本から来た』という思いが強く感じられ、日本の国を背負ってここにいるという事を、初めて体験したのです。やはり歴史と文化の長い国、ヨーロッパで時間の単位や重みの違いを感じました。そのスピリチュアな体験が創作にプラスにします。身体も精神的にも喜びが作品に反映されますから」
アメリカ人弁護士のパートナーとともに、現在38年目のアメリカで伸びやかに自由に創作をするアーティス、イク・ヒグチはさらなる飛躍を目論んで輝いていた。
1 飯塚国雄 東京都出身。1961年渡米後オーティス・ロサンジェルス都立美術大学とブルックリン美術アートスクールで学ぶ。68年アート・スチュデント・リーグで彫刻を教える。72年ニューヨーク日本人美術家協会(JAANY)を設立し、初代会長に就任。95年に国連で原爆をテーマにした個展を開催。
ギャラリー内
ギャラリー内。左は筆者トモコの作品
ギャラリーの外観
ギャラリーの前
ギャラリー近辺。はるかにエンパイア・ステート・ビルディングが見える
イクの12階のアパルトマンから見たユニオン・スクエア方面
ユニオン・スクエア
ユニオン・スクエア
イクとパートナーのローレンス
ローレンスと筆者
ブルックリンのサロン展にて、イクと筆者(この会場のオーナーが日本人のNii)
サロン展会場外観
サロン展作品。右上がイク・ヒグチの大作。下左から2番目が筆者の作品
ワールドトレードセンター跡にできた9・11メモリアルタワー
ブルックリンから見たマンハッタンの東。前の河はイースト・リヴァー
真ん中の灰色のビルは国連
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)