生まれたのが一世紀ほど早過ぎたと思われるホモセクシュアルの作家オスカー・ワイルド(*1)の生涯は、私が知る限りはかなり悲惨だった。彼の妻は彼の息子が2人いたにもかかわらず名前をワイルドからホーランドに変えて生きていく方法を選んだ。3代目の孫のメルラン・ホーランドになってからやっと「私の祖父はオスカー・ワイルドだった」と公言することができた。
そのようなオスカー・ワイルドを現在に生き返らせ輝かせるという作業を丹念にやっているアーティストに出会った。総合芸術家パトリック・シャンボンである。
私が昨年(2016年)個展を行ったパリのシュマンヴェールの画廊で、パトリックの個展があった。彼のヴェルニサージュ(オープニングパーティー)では互いに意気投合し、取材へと至ったのだ。
彼の展示はオスカー・ワイルドをテーマにした作品で、オスカーの言葉、詩、生き方、行動を現代に置き換えて描いたBD(バンド・デシネ=劇画)の本と、その原画の展示だった。本のはじめにはメルラン・ホーランドのBDにたいする賞賛の言葉が書かれてあった。
パトリック・シャンボン
筆者トモコと
Oscar Wilde
昔からのアーティストならではの生活
パトリックはパリ郊外のムードンで生まれた。父親の仕事の関係で生まれてまもなくパリに引っ越してきたという。
「アーティストになるきっかけと言うのは、僕は幼児の頃からデッサンが好きで、特に動物に興味があったので、ひたすら描いていたようです。いつもクリスマスや誕生日のプレゼントに僕のデッサンを描いてみんなにプレゼントしていましたね」と、子ども頃の思い出を振り返って楽しそうに話してくれた。受け取った大人たちは、小さな子どもが大人顔負けのデッサンをしていたので喜んでプレゼントを受け取っていたと話してくれた。
「ところで、子どものころ僕のお祖母さんから聞いた面白い話しがあります。お祖母さんは当時モンマルトルに住んでいたお針子さんでしたが、彼女が最初のベッドを作った時ミスタンゲット(*2)にプレゼントしているんです。当時、彼女は貧しかったので、お祖母さんが見かねたんでしょうね」
パトリックは15歳で南フランスのカップダグドに移住した。アート・デコレーションの勉強し、17歳でモナコのデッサン学校へ進学する。
「その後トゥールーズの美術大学に入りましたが、教育方針、指導方法、考え方などが私には合わずに、ブルターニュのロリアン(フランスの北西)の美術学校に転校し、そこで幾つかの絵画専門教師の資格とフランス語教師の資格を取得しました」
学生時代はたくさんの旅をしたと話す。96年にパリに戻り今はモントルイユ(パリの東)に自宅兼アトリエを持っています」
私はこの話を聞きながら、昔から裕福なアーティストの生活方法を思い出した。それは転々と場所を変え、自分の合っている所を探して勉強し、そして旅をするという方法だった。彼もフランスのいくつかの地域を移動し再びパリに落ち着いた。
Art-galeriecharlot-2407
Art-galeriecharlot-2413
Art-galeriecharlot-2443
時空間を越えた現代の作品
その後彼はパリに落ち着いて20年、複合的に学んだ事が開花してさまざまな展示会を行っている。
「セラミックはトゥールーズで学びましたが、粘土に触れると言う事は僕にとってはまるで滑らかな布や上等な紙を触れる様な感触があり好きです」と、デリカーシーのある美しいフランス語で話す。
「先日のEXPOでは動物をモチーフにしたセラミックと、ポートレートのデッサンを合わせて展示しました。モナコで『楽焼』も経験しましたよ。今年は南フランスのヴェンヌで6月から11月まで「マチスグループの展示会があり、やはりセラミックとポートレートを出します」
ようやく今回の展示作品であるオスカー・ワイルドに関する話になると、冷静な語り口調となった。
「もちろん彼の生き方や文学にはとても興味がありましたが、約10年前に彼の別の面を発見したのです。それは彼の生き方はとてもモダンで、100年以上たった今になってやっと時代が彼に追いついて来たと思っています。彼の言葉やグラフィックの描き方が美術史にどれほどの飛躍を与えたか、現在になってやっと評価し始めたのが現状です」
当時は理解不可能アーティストであり評価されなかった。一世紀以上早すぎたアーティストであった。
「私の本を持ってアングレーム(西南フランス)のBDフェスティバル(国際漫画際)に参加したのですが、今なお、難しすぎると言われ隅に追われるという始末です。劇画やマンガ、アニメなどのどのジャンルにも入れなかったのです。本当に愕然としましたが、パリでオスカー・ワイルド協会の人に出会い、やっと道が開けたのです。ワイルドの専門家でソルボンヌ大学教授や、サロン・リテレールの方々で、ワイルドのような中性的なお洒落な服装や飾りを身につけ、仕草を真似るワイルド愛好者、即ち、ワイルドリアンがいたのです」
この頃の話に成るとシャイな彼はとても饒舌になりテアトルで一人芝居をしている役者のように見え、まさにワイルドに陶酔しているアーティスト。
「昨年の暮れパリ私立美術館「プチ・パレ」で「オスカー・ワイルド展」がありましたが、僕の本もそこに展示されたのです。9月に出版ができたので、本当に嬉しかった。これは1年間のプロジェクトでパスカル・アキエン氏(ソルボンヌ英文学教授、オスカー・ワイルド研究のスペシャリスト)より多くの協力を得たお陰」
劇画のワイルドの髪の毛がフワッと風の吹かれているような所があるが、「これは皆が彼を知っているようで知らないボヤケテ見られている感じを表現しました。彼はパリで46歳で亡くなり、何人かの友人達だけでパリのペール・ラェーズ墓地に葬られました。先日行ってみましたが、なんと他の墓よりたくさんの花とファンからの寄せ書きがありました」
イメージを膨らませた作品でワイルドに女性の網タイツを履かせて描いたのものなども。「時間差を超えて現在に彼を存在させて見たのです」
彼には次の作品の構想がある。「古代の洞窟の壁画から現在までの美術史を、やはり時間空間を越えて一つにしたものを描こうと考えています」
彼の作品は広大なロマンを感じさせ、膨大な検証とテクニックが必要である。」回はジャック・ラカン(フランスの哲学者・精神分析家)を舞台に立たせた劇画だった。ここまで来るために、彼は必要な人と出会い。膨大な資料を手に入れることができたのだ。
Patrick-Chambon-galeriecharlot-893
Art-galeriecharlot-913
Patrick-Chambon-galeriecharlot-1152
Art-galeriecharlot-1254
Art-galeriecharlot-1255
1)オスカー・ワイルド(1854-1900) イギリスのダブリン(現アイルランド)に生まれる。小説・詩集・評論・童話・喜悲劇・書簡・随筆・を書く。耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末文学の旗手の様に語られる。多彩な文学活動をしたが、男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに没した。彼の文業と生き様は世界中に影響を及ぼし、日本でも森鴎外、夏目漱石、芥川龍之助、谷崎潤一郎たちがワイルドを意識した。代表作「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」「サロメ」その他。(ウキペディア参照)
2)ミスタンゲット(1873-1956) フランスのシャンソン歌手・女優。華麗な舞台と脚線美で「レヴューの女王」「ミュージックホールの女王」と賞賛された。(ウキペディア参照)
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)