日本人アーティストHideo・CHITA(ヒデオ・チタ)とは20数年も前に、彼がパリで数人の仲間とグループ展を開催した時からの知人であった。彼の友人のAkio・HANAFUJI(アキオ・ハナフジ)を紹介され、昨年から3人で開催する展示会の話を詰めてきたのだが、この5月にやっと実現することができた。Hideoは東京、Akioはメキシコのチアパス州のサン・クリストバル・デ・ラス・カサス(*1)、私(筆者Tomoko Kazama- OBER/フランス国籍)がパリ。それぞれ異なる国に在住し、作品をつくり続けている。
3人のアーティスト
ギャラリー1F
挨拶するTomoko
Tomoko(筆者)の作品
Akio作品の前で
Hideo作品の前で
居住国の違う3人の日本人アーティストによる展覧会
異なる3人の作品の違いと居住する国を超えての展示会(2018年5月10日~19日)のテーマを「色彩のハーモニー」として位置付けた。
オープニングパーティにはパリ・メキシコ文化会館館長(後日、大使秘書来廊)をはじめ日本文化会館館長やパリ在住のアーティストたちが150人ほど来廊、Akioに同行した2人のメキシコ女性(1人はキュレーター)も民族衣装で参加、日本女性のビオラ演奏でひしめくような熱い幕開けであった。国を超えた友、2人の日本人アーティストに思いを聞いた。
Akio 「大阪生まれの東京育ちです。メキシコについては以前からマヤ文明への興味がありました。1978年にちょうどメキシコの国立芸術院からの個展の招待がありました」
Hideo 「東京の大田区生まれです。なぜアートかというと、私は魚屋の長男として親の生き生きとした仕事を見て、『私の一生の生きがいは何か』と考えた。それがアートだったのです。パリのナシオンにあった日本文化センターで20数年前に5人展を開催しましたが、それがきっかけでパリで定期的に展示会を行うようになったのです」
Akio 「サン・クリストバル・デ・ラス・カサスに3人の子どもがいますが、43年間そこで暮しているのにもかかわらず、日本と異なった習慣や言葉のニュアンスなど、今でも難しく、日本人でもなくメキシコ人でもない宙ぶらりんな精神状態です」
これは彼の正直な言葉だが、彼はスペイン語を習得。ジェスチャーや顔の筋肉の使い方が日本人の動作ではなくなっていて、まるでマヤ・インディオの子孫のようにも見えるほどだ。
Hideo 「日本とヨーロッパの絵画に対する人々の反応の違いですが、日本の場合は見に来た方からの作品への質問が少ないのです。ヨーロッパでは見た方からの質問が多いですね。例えば、『この作品が好き』とか、『材料は?』、『何を表現しているのか?』などを聞き正すので、生の反応があります」
Akio 「私は生きる場所、作品をつくる場所にメキシコを選んで間違っていなかったと思っています。それは国も年齢も性別も関係なく、力のあるアーティストとして受け入れてくれたのです。アートは長い目で見ればこれはメキシコにとって文化財産になるので、アーティストはとても優遇されるのです」
これはフランス及び他のヨーロッパでも言えることだ。しかし才能のある一握りのアーティストに絞られるのだ。
Hideo 「私の作品の趣旨は一言で言うとミニマリズム(*2)です。以前から続いているモチーフとマチエ-ル作りですが、2色が合体し、ぶつけ合って上昇し、その先に光がくる」
Akio 「私はメキシコで幸いにもマエストラーソ(芸術の大家)と呼ばれています。国で買い上げてくれた作品がいくつもの美術館に収蔵されています。税金は私の作品で払っています。国が作家を援助してくれるのです」
日本人作家としてはメキシコでは破格の待遇と高額な値段の作品にびっくりさせられる。彼はメキシコに来た当時はインディオ達と生活をし、その精神構造から多くの刺激を受け、現在の彼の絵画の根本になっている。華やかな色の祭りの民族衣装を着た人々の大作が描かれており、それはインディオの生活様式の中に根づく先祖代々受け継がれている宇宙的・シャーマン的要素が軸になっている。
オープニング演奏会
日本の曲も演奏
アーティストたちを紹介
メキシコからAkioと来仏した美しい織物を身に着けたメキシコ人女性(左)とキュレーターの女性(左から2番目)。Akioの隣(右から2番目)はパリ・メキシコ文化会館館長のマダム・エステファニア
日本文化会館館長杉浦勉さん(中央)
画家の松谷武判さんと作家たち
根は日本。幹、葉が他国の土壌で成長し開花する
Hideoは2年前Akioに招待されて彼の在住する町、サン・リクリストバル・デ・ラス・カサスに1ヶ月以上滞在し、作品づくりと展示会をした。その時、ジャングルに埋もれているいくつかの素晴らしいピラミッドを見たそうだ。観光客の入れないあまり知られていない数々のピラミッドがあり、Akioは限られた人のみ内部に入れるという。彼はフレスコの修復作業の国家的プロジェクトのリーダーとしてメキシコ文化芸術の保持に貢献している。
Hideo 「ヨーロッパではパリで最初に展示をしましたが、その後ドイツ・イタリアなどで展示会を開催しています。作家に対してドイツ人はまじめでアドバイスをしてくれますが、フランス人は突っぱねるというか、冷ややかに感じます」
これは他者とのコンタクトの取り方が違うからだと思う。パリでは作品と作者に大いなる期待があるのだが、作者に魅力のある話術やエスプリがないと耳を傾けてくれない。それがないと「ハイ次!」と、まるで蝶が次の花へと行ってしまうように移動してしまうのだ。
Akio 「私はメキシコのみならず、中南米及び北アメリカを自分の作品で制覇することができました。昨年、43年ぶりに日本の神奈川県民ホールと岩崎美術館で発表(日・メキシコ芸術交流・チアパス植民計画120周年記念展(*3)・Akio Hanafujiとチアパスの画家達)し、今度はヨーロッパでと思い、パリが最初、パリを中心に作品を発表するつもりでいるので、これからが楽しみです。しかしこの年齢になってパリで発表なんて考えられませんでしたが、これも友情の繋がりです」
Hideo 「今後の作品に関してですが、Amour(アムール)『愛のシリーズ』で色とマチエールを追求して発表を続けたいと思っています」
Akio 「尊敬するアーティストではタマヨ(*4)です。20世紀のメキシコの中でメキシコの文化を、絵画を通して世界に知らせた人です」
Hideo 「尊敬する人は実はサルトルです。彼の著作から大きな影響を受けました。『存在と意識』、この二元論を一元論にしたのがサルトルで、特に『嘔吐』は引き付けられました。カミュの不条理の世界にも大いに興味があります」
Akio 「現在絵画の流れが混沌としていて、世界中が厳しい状況にありますが、フランス人作家も方向性を失っているのでないでしょうか?『我々が方向性をつけるのだ』と言う意識があり、その一歩が今回のパリでの発表です」と、最後に彼は力を込めて語った。
長期間外国に住む日本人のメンタリティーの変化と作品の関係は、根っこは日本に根差しながらも、幹や花や葉は生き暮した所から成長し咲き誇るのであろう。
今回の私(Tomoko)の作品は回顧展のつもりはないが、パリでの43年間の作品の中の1200点の一部30点を展示した。展示した30点の作品を改めて眺めると、『人生は短し、されど芸術は長し』ではないが、こんなもんか大した事はなかった、と反省した。やはり満足に描けるためには3世紀は必要かもしれない。この3人展は今イタリアの2箇所で開催中、そしていくつかの国から展示の要請が来ている。居住する土地で文化も言葉も国境を超えて、あらゆる壁を突き破って枝葉が伸び続けている気がした。
作品(Akio)
作品(Hideo)
1)チアパス州 メキシコ南東部に位置する州でグアテマラと国境を接する。マヤ・インディオ住民が多い。先古展期最後のイサバ遺跡があり、オルメカ文明とマヤ文明の橋渡し的な役割を担ったと注目された。
サン・クリストバル・デ・ラス・カサス(San Cristóbal de las Casas) 美しい高原都市で高度2163m。スペイン植民地時代のバロック様式の教会や修道院が残っている。高地と熱帯雨林の密林にはマヤの考古学的遺跡やスペイン植民地都市が点在。先住民族が昔ながらの暮らしを営む村が沢山ある。
2)ミニマリズム 視覚芸術における用語で、装飾的・説明的な部分をできるだけ削ぎ落とし、シンプルな形と色を使用して表現する彫刻や絵画で、1960年代を通じて主にアメリカで展開した。抽象美術の純粋性を徹底的に突き詰めた。
3)榎本外務大臣のメキシコ(チアパス)植民計画 1891年より現地詳細調査、1897年実現。3月24日、36名の日本人男子(藩州赤穂及び三州吉良の旧士族を中心に、岩手、宮城県出身の若干名の自由移民が加わっていた)が横浜発の米船Gaeric号で出発し、サンフランシスコのアカプルコで乗船を換えチアパス州に向かった。5月19日、入植地にラテン・アメリカで最初の日本人集団が到着した。
4)ルフィーノ・タマヨ(Rufino del Carmen Arellanes Tamayo) 1899-1991 メキシコの画家。
ウイキペディアを参照
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家)