アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.64

パリの日常-フジコ・ヘミング【Fuzjko Hemming】-ピアニスト

パリ在住のピアニスト、フジコ・ヘミングに初めてビオス電子版フロントのインタヴューをしてからもう4、5年はたっている。彼女は世界中で演奏活動をしている超多忙なピアニストとしてますます注目されている。日本では彼女のドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』(小松莊一良監督)が各地で上映されて大好評であることがパリまで伝えられている。

今回はパリでの彼女の生活の中から日常の一部を切り取って、一人の友人としての目線でとらえた彼女の姿を、世界中の読者たちに伝えたいと思う。

フジコは日本でのコンサートツアー後、ニューヨークのカーネギーホールのコンサートを終えて、パリのアパルトマンでやっと夏のヴァカンスを過ごすことができた。しかし約一か月のヴァカンスは愛する犬や猫たちと戯れる単なる休暇ではない。次の仕事の打ち合わせでパリまで訪ねてくる人たちと会い、世界中からの電話やFAXの応対に追われる。そして欠かすことのない毎日のピアノのレッスン、あっという間に時間が過ぎてしまう。

アパルトマンでピアノを弾いているフジコ・ヘミング

憧れのパリで

多忙を極める彼女のスケジュールをぬって、何かと共に用事を済ませながらカフェに入り2人で話し込む時間は特別である。そんな時、ゆったりと座り道行くパリジャンたちを眺めながら、彼女は「憧れのパリに住めるなんて、私の好きな4区のアパルトマンで。夢のようだわ」と、少女のような笑顔がほころんで輝く。

「若い頃、南西ドイツに住んでいて、お金を貯めてすぐ隣のライン川を越えて、フランスのストラスブルクに行ったとき、フランスはなんて自由な空気にあふれているのだろうと思ったわ。そこからバスでパリに来てね、本当に素晴らしい街に、あこがれがもっと強くなった。フランス人と比べると、ドイツ人は決まり切ったことはきちんとやるけれど、自由な発想や行動があまりできないかもしれないと思えたの」

ゲルマン民族とラテン民族の違いは水と油のようだと言われる。彼女の発想はラテン系にぴったりで、パリにいる彼女はさながら水を得た人魚姫。

「過去にも有名なピアニストやアーティストが、やはりパリに住んでいたし、パリはだれでも受け入れる。他人をいちいち批判せずに、自由にそれぞれ自分のやるべきことに打ち込めるのがパリ」。私はいつもこのような彼女の言葉に深く共鳴する。2人で4区の街角で乾杯!

日本人のピアニストの母とスエーデン人の画家・建築家の父の長女としてベルリンに生まれたフジコは、5歳のときに両親とともに日本に来て在住する。しかし、戦争をはさんで父は帰国し、戦時下の日本でピアノの手ほどきを受けながら母の手ひとつで育てられた。2つの祖国を併せ持つ幼い子どもが生きるには当時はあまりにも厳しい日本であった。「ガイジンって、石を投げられたわ」

やがてドイツに留学し素晴らしい才能を開花させるが、貧しい中の病気で聴力を失い(現在、左耳は40%回復)、失意の中でもピアニストとしての思いをあきらめずにヨーロッパに在留する(*プロフィール参照)。「私の居場所はどこにもない」と、胸の内に抑えていた思いの中でフジコの初めてホッとする場所が、かつてから憧れていたパリであった。

お気に入りのカフェで

筆者トモコ・オベールと

いつもの散歩道

いつもの散歩道の貴族の館前で

好奇心旺盛な多言語のピアニスト

パリでのフジコの交流関係を私から見てみていると、ヨーロッパ人でドイツ語を話す人との会話の時が、一番自由になっているように見える。生まれ育った5、6歳までの言語は人の一生を左右すると言われている。例えば、パリで生まれて6歳頃まで在仏していた日本人の友人の子どもたちと会うと、やはりフランス語を話すときが同じように自由になっている。

フジコは先ずドイツ語、日本語、英語は不自由なく、さらにスエーデン語そしてフランス語がわかる。世界中を飛び回って活動している人たちはその国の言葉で話すのが不可欠なので多言語を駆使する。

彼女は「フランス語がなかなか聞き取れず大変」と言いながら、40%ほど回復した左耳に集中してフランス語のレッスンを続けている。カフェなどで飲み物などを頼むときや買い物をするには不自由はしないが、細かな込み入った文などは、街中でもすぐに「これどういう意味、発音は」と、好奇心旺盛に聞きだす。多言語の習得者はみな彼女のように積極的であるが、日本人は大人になるとこの好奇心旺盛が失せてしまう人が多いようだ。

彼女は、フランスの歴史のみならずヨーロッパの歴史にも造詣が深く、出会ったばかりの頃、私の誤って言った年代が訂正されるので、これはすごい人だ、曖昧な知識でいいかげんな事は言ってはいけないと思ったことがあった。

フジコのアパルトマンの部屋の一つに「蔵書の間」があり、たくさんの愛蔵書がある。もちろんドイツ語の本が多いのだが「英語とフランス語の本も沢山あるわよ。フランスは本が他の国と比べて安いの。でも東欧でドイツの本が安く買えるので、トランクのひとつには全部本をつめて持って帰ったことがあったわ。でもそれを読む時間がなかなか取れなくて残念」。パリのテレビ番組は夜中に昔の良い映画をもちろんフランス語で放映するので、「宵っ張りになる」とか。

フジコの動物愛護のためのチャリティーコンサートはよく知られているが、自宅でも猫たちと一緒に暮らしている。「今、プーチン(高齢だが野性的なイングリッシュ・キャットの名前)の具合いが悪く、クリニックに通ってやっと持ち直しているの」。この猫は病気で痩せて歩くのもヨロヨロだったのが、まるで子どもを心配する母のように手をつくす彼女の愛情で、元気を取り戻し食べるようになった。

猫たちとは「猫語で話す」と言う彼女は誰も聞いたことのない優しい「猫なで声」でほにゃほにゃと会話する。猫たちだけに通じる不思議な言語で。

海外で発刊されている新聞記事。「偉大なピアニスト」として称えている

アパルトマンの蔵書の間

アパルトマンのピアノのある部屋

「魂のピアニスト」と言われる所以

今年は日本のドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』がヒットし、さらに著書『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』(暮しの手帖社出版)がベストセラーになって一段と飛躍した年だ。映画の中では「今日はパリの友人がきます」と彼女がお茶の用意などをしているところに、私が「こんにちは」と入ってくるシーンがあり(私はまだ観ていないが)、映画を観た弟夫婦と妹たち家族や友人がびっくりしてメールや電話で知らせてくれた。そのシーンは私も撮影しているとは知らずに訪ねて行ったのだが、彼女の思わぬ細やかな配慮は様々な場面で経験している。

これからのフジコの演奏の予定は1週間後にウクライナのキエフ、そしてハンガリーのブダペスト、スロバキアのブラチスラバ、ニューヨークそして半年以上にわたる日本公演で、パリに戻るのが12月下旬の予定である。

「来年はパリ郊外のお城と中国でのコンサートが何カ所か加わるの」と世界中でオファーがあり、たくさんのファンが待っている。2019年の年末までスケジュールがつまっているという。こんなにも世界中の人たちを魅了して止まないクラシックのピアニストは世界でも稀である。それこそが「魂のピアニスト」と言われる所以であろう。

ある日、彼女が自宅でピアノをひいているときに、私は一人でその素晴らしい音色に聞き入っていたことあるが、それこそ「至福のとき」であった。私のパリでの40年は彼女に出会うためだったのか!と思えるほど心が満たされた。「私のピアノは天国で完成する」という言葉を彼女から聞いたときに、天使の軍勢が表れてフジコのピアノに酔いしれているような錯覚すらおぼえた。

フジコのパリの日常では、アパルトマン近くで気に入った服を買って、それを自分好みに変化させて着ている。テーブルの上には、いつも洋裁道具が広げてあったり、時には父から受け継いだ絵の才能を発揮して描くための絵具だったりする。そして彼女の周りをゆったりと優雅に歩きまわりながらピアノに耳をそばだてる猫たちとの日常が繰り広がる。何十年もの間、彼女のやっていることは変わらない。時代が今やっとフジコに追いついてきた。過去の偉大なピアニストは、ピアノの音に自分の色と自分の空間を付加できた人たち。現代に生きるピアニストとしてこの領域にフジコは達しているのである。

(2018年8月20日/パリにて)

5年前に初めてフジコさんを取材した時の筆者とフジコさん

ドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』

『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』(暮しの手帖社/本体2315円+税)

フジコ・ヘミング
 本名は、ゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko)。ピアニストの大月投網子(とあこ)とロシア系スェーデン人画家・建築家のジョスタ・ゲオルギー・ヘミングを両親としてベルリンに生まれる。5歳の時に帰国し、以来東京に育ち、母の手ほどきでピアノを始める。青山学院高等部在学中、17歳でデビュー。東京芸術大学在学中には、NHK毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞など多数受賞。
 その後、28歳でドイツへ留学。ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業後、欧州に在住し演奏家としてのキャリアを積む。その間、ウィーンでの後見人パウル・バドゥーラ=スコダに師事。ブルーノ・マデルナにウィーンで才能を認められ、ソリストとして契約。レナード・バーンスタイン、ニキタ・マガロフ、シューラ・チェルカスキーからの支持と援助があった。しかし、リサイタル直前に風邪をこじらせ、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、失意の中、ストックホルムに移住。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、ピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。
 1999年、フジコのピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメンタリー番組「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放送され大反響を巻き起こす。同年に発売されたファーストCD「奇蹟のカンパネラ」は200万枚を超える大ヒットを記録。日本ゴールドディスク大賞、4度にわたる各賞のクラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。2000年以来、各国の著名な室内管弦楽団他と共演。01年、ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタルに3千人の聴衆が会場を埋め尽くし、感動の渦を巻き起こした。公演活動で多忙を極める中、動物愛護への関心も深く、長年援助も続けている。
 18年、ドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」が全国にて上映。同年、『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』(暮らしの手帳社)出版。(フジコ・ヘミング公式サイトの「プロフィール」より抜粋・編集)

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。