原発ゼロ国ポーランドで
アートシンポジウムとは、5カ国20人以上のアーティストが約2週間、衣食住を共にし、課題の作品を創り、発表し、交流を持つというシステムで、これはどの国でも同じである。今回、私が招待されたシンポジウムは、北ポーランドのグダニスクから約60キロ西にあり、バルチック海まで20キロ程のチィマノボという小さな村で開催された。私は2年前も招待された事があり、その時は飛行機を利用したが、今回はパリから車でベルギー経由でドイツのドルトムントの友人宅に1泊。翌日早朝1000キロ以上の道のりを走った。ベルリンの近くで道を間違えたり、ポーランドの田舎道で迷ったりして、私は約束の時間に1時間ほど遅れて到着した。
この北ポーランドは森と湖が沢山ある実に自然が豊な地域である。私達の宿舎はザルノヴィエキエ(ジャルノビエツ)水力発電所の素晴らしい別荘であった。別荘の前は大きな湖ザルノビエキエが拡がっており、ポーランドで最大規模の発電所が見える。しかし森や丘が周りにあって自然に設置されていた。後ろの丘を貯水池にして、下の発電所に急勾配で流し、さらにこの大きな湖へと、水を巡回させて利用している。1980年代、ロシアの資金で初の原発がこの地で着工された。しかし、86年チェリノブリの原発事故後、91年に工事は完全停止となった。現在、ポ-ランドは原発ゼロ国である。
美術館でのオープニング、左がアレキサンダー
アレキサンダーの個展で。灯台の中の展示
シンポジウム主催者アレキサンダー
主催者のアレキサンダーは1956年、西ポ-ランドのチャルコヴ(Czarnkow)に生まれた。グダニスクの国立美術大学を卒業後、彼は多くのポーランド人が好むバルチック海岸や海洋風景等を描き続けてきた。
「どうしてこの道を選んだかだって?やはり情熱だね。子供のときから絵を描くのが好きで、先生もずいぶん押してくれた。しかし、真剣になったのは、友人が絵画展で受賞した。よし、僕も……と。若かったし負けず嫌いだった。それと、大志を抱いていたから」。
描くのに大事にしていることは「繊細さと驚くべき内容。それは最も大切な目でよく見て、脳で感じ、それをリアリティにする作業すること」と話す。
オーガナイザ-としての苦労は山ほどある。なかでもやはりスポンサー(現在は、TV局、ラジオ局、町や自治体、発電所等)探しが一番の苦労という。
「経費がすごくかかるので、これはとても重要なこと。でも私は他の人との交渉が好きだし、どのようにオーガナイズするかが腕の見せどころ。でも一番大事なことは希望を持つこと。そして気持ちの強さと人間的な魅力も大事なこと。それがあればできると思う。例えば、特にクリスマス前が1番スポンサーに頼みやすい。絵をプレゼントしてシンポジウムに関心を引くことができる。私がこのシンポジウムを創始してから今年で11年を迎えるが、だんだん大きくなってきて、大勢の人たちが賛同してくれることはが本当にうれしい」。
希望は?「良い絵を描き続けられること。アーティストとして食べられること。常に新しい発見をするために他の画家との交流を持つこと。そして絵を自由に好きなように描くことができれば最高」。私の質問に真剣な面持ちで次々と答えるアレキサンダー。妻と二人のこどもの父親だが、自慢の長女はカメラマン。「各地を自由に飛びまわっている」とか。
カシューブ人のアコーディオニストと
水力発電会社の別荘右から2番めに宿泊
今も日本文化は「フジヤマ・ゲイシャ」
メンバーの中にカシューブ人が2人参加している。ポーランド人より前に、つまり6世紀頃このあたりに別な所から移動してきたスラブ系の人たちで、言葉や音楽、習慣など独特な文化を持っている。1人はアコーディオニスト、ジョセップ・スミアテッキ。他のヨーロッパ人同様、飲み食いした後に踊るので、ミュージシャンは重要な位置を占めている。彼は展示の前に皆の絵の仮額製作もする。妻は画家である。
シンポジウムの展示とオープニングパーティーは村から約10キロ離れたクロコヴァの美術館で盛大に行われ、今回も有意義なときを十分に楽しむことができた。
今年はアレキサンダーの要請で、彼と通訳としてフランス語ができる画家エヴァと一緒に、私の絵を贈呈するために、大事なスポンサーである水力発電所の社長ピョートル・クションジェックを公式訪問した。社長は日本文化に興味があり、特にサムライの精神や生き方、版画の美女がお気に入で愛蔵の本を見せてくれた。忠臣蔵や版画のセミヌ-ドの女性が描かれており、エヴァが「やはり日本文化は今もフジヤマ、ゲイシャね」と、2人で思わず顔を見合わせてしまった。
古都のクラコフから来たエヴァ(左)とトモコ
シベリアの日本孤児たち
ピョートル・クションジェック社長に会って私が初めて聞く話があった。第一次世界大戦の時代、シベリアの日本人孤児700人あまりがこの近くの村に強制移動させられたということである。当時、ポーランドはソ連の支配下にあった。孤児たちはその村で養われた。その後、イギリスや他の国の協力で日本に送還されたそうだ。その孤児たちが人生の最後に近くなった時、お礼を兼ねて自分たちが住んでいた村を訪ねた記録があり、後にポ-ランドの日本大使がやはり訪ねて来ていた。執筆者のサインが入った日本人孤児の記録の本を贈呈していた。私にその本を見せてくれたが、岡田大使のサインと友好の言葉が書かれてあった。私は通訳に思わず「第一次大戦?第二次大戦ではないのね?」と念を押して聞いた。「そうです」と。戦争はいろいろな傷を長く引きずる。
最後に彼は私に大きなすばらしい「ポーランドの家屋の歴史」という本を贈呈してくれた。彼のお手製の甘くて強いチェリー酒を勧められ、4人で「ナストロビエ!(乾杯)」と。今、午前10時40分。社長室から私達の別荘が遠くに見える。
水力発電社長と。トモコの絵を贈呈
TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)