日本の芸術的家庭環境の中で成長し、ロサンゼルスに45年間在住
眞弓さんにお会いしたのは今年の1月。私はピアニストのフジコ・ヘミングさんに頼まれて彼女のパリのアパルトマンにいる老猫(ロシアン・ブル-/名前はニャンスキ-)をカリフォルニア州(日本の約1.1倍の面積)ロサンゼルスの北、サンタ・モニカに連れて行った時だった。眞弓さんとご主人、征夫さんがフジコさんのサンタ・モニカの自宅を管理していたのだ。パリからロスまで直行で11時間40分、たまに飛行機が揺れると足元に置いた猫籠の中のニャンスキーが「ニャニャ」と、「大丈夫よ、ニャン、私いるよ」と。周りの乗客は私を見て笑顔でうなずいてくれたりする。
征夫さんがロス(ロサンゼルス)の空港に車で迎えに来てくださり、20キロほど北の閑静な住宅地サンタ・モニカのチャ-ミングな家に着いた。ちょうど眞弓さんが仕事から戻ってきて晴れやかな声で車から「コンニチワー」と挨拶してくれた。初めてお会いした木之下さんご夫妻だが、お互いに気取らず自然に話ができて良い出会いになった。フジコさんもヨーロッパと日本のコンサ-ト・ツアーが終わり、サンタ・モニカで休養するために滞在していたが、いつもながら強行スケジュールだったにもかかわらず、とても元気そうだった。
私はニューヨークなどの東海岸には数回来ているのだが、西海岸には初めてだった。サンタ・モニカは1月にもかかわらずまるで春のような気候で1年を通してあまり気温差がない。まさに穏やかな楽園の様なこの地域は、アメリカ中の裕福な人たちが理想の地として自宅や別荘などを所持しているという、いわば高級住宅が一部の地域に並ぶ。
フジコさんの家の前後にある庭には木や植物がたくさん植えられていた。私が見たことのないような草木もあり、その植物の豊富さに驚いた。また、毎朝小さい蜂鳥が庭先に何羽も飛んできて木の花の蜜を吸っているのを初めて見て思わず興奮した。
カリフォルニア州の南はもうメキシコ。サンタ・モニカ海岸にシカゴから出ているル-ト66の終着点があり、プレ-トが出ていた。私は若かりし頃、日本のTVで観た「ルート66」のアメリカへの憧れを思い出し、少し感傷的になった。風もあり少し気温が低いにもかかわらず若い人や子供たちは泳いでいた。
フジコさんを囲んで。木之下夫婦
たくさんの木々があるフジコさんの家の庭
フジコさんとトモコ、広い庭を散歩
庭にはおいしそうなオレンジの実がなっていた
サンタモニカの海辺
ルート66の看板の前で。筆者トモコ
豊かな芸術的家庭環境で
「父、高梨勝重は数寄屋造りの建築家で、母は奄美大島出身ですが、声楽家を目指し東京の音大へ進学しました。そこで父と出会ったのです。私たち家族は東京の市ケ谷にいましたが、私も母と同じく音大の声楽科に進みました。私の上の姉、淳子も声楽科出身でシャンソン歌手になりましたが、その後、彼女は帽子のデザイナ-になるためにサロンドシャポー学院で帽子作りを学びました。卒業後、市ノ瀬あきおのアトリエで修行し、やがて新宿と市ケ谷に帽子と下着のブティックを開店しました」と話す芸術一家の中で成長した眞弓さんだが、彼女の祖父、高梨由太郎も日本で最初に建築の本を出版した人で建築の業界では名の知られた方である。
「私は声楽科を経てピアノ教師をしながらコンサ-トに出演したりしていました。その頃、姉はアメリカ人と結婚してアメリカに在住していましたが、私は最初の夫が早く亡くなりましたので、1975年頃、姉を頼って渡米しました。姉の家に居候しながらバーでピアノを弾く仕事などをしていました。アメリカで出会ったパ-トナーが社交ダンスの全米一を目指していた男性なので、彼と朝から晩までダンスの訓練をしていましたが、それこそアスリ-トの様な厳しい特訓でした。しかし、音楽に合わせて踊るので私には会っていたのです。数年後2人の関係が破綻して、私は落ち込んでいましたが、ロスでカイロ・カ-ニバルがあり、そこでべリ-・ダンスを初めて間近に見たのです。パートナーがいなくても一人で踊れてとても自由な雰囲気があり、40歳を過ぎていましたがベリーダンスに目覚め、指導資格も取得しました。本当に楽しかったですね」
私の希望でサロンで少しベリーダンスを踊って見せてくれた。ヒラヒラの花柄のエプロンを付けたままだったが、今までの彼女ではなく妖艶な彼女の眼差しと腰の動きは、同性でもドキドキするほど素晴らしかった。サロンにはダンスの全身の動きが見える大きな鏡が備え付けられていた。
「ロスとサンタ・モニカで暮らし、日本を離れてもう45年になります。今の夫とは一緒になって約20年。夫はJALの機長として勤務していてロスに在住していました。前夫の間に2人の男の子がいますが、やはりロスに住んでいます」
眞弓さんはロスは自分の庭のように隈なく知っていて、私の滞在中彼女は車でダウンタウンにある有名なリトルト-キョー(日本人街)を案内してくれた。全米日系博物館(第二次世界大戦中の日系人の強制収容所の再現や明治時代の渡米一世から現在に至る約130年間の日系人コミュニティの形成と遍歴の過程を紹介)を案内してくれたり、日本料理屋で美味しいチラシ寿司をご馳走になったりした。主にインタビュ-は日本人街にある都(みやこ)ホテルで行ったが、周囲は昔ながらの懐かしい日本の雰囲気が残っていた。
リトル・トーキョーの看板
日本人街
日本人街の広場
日本人街「都ホテル」でインタビュー
フジコさんとの出会いを語る
パリではフジコさんが私に 「親戚の人がサンタ・モニカの家を管理してくれている」とよく話していたが、眞弓さんとフジコさんの出会いはどんな事情があるのか、眞弓さんに伺うことができた。
「1950年頃ですね、私が7歳くらいの時、立教女学院に通っていた私の2番目の姉、綾乃がフジコさんのお母さまの大月投網子さんからピアノのレッスンを受けていました。そのころ大月さんたちは原宿に住んでいましたが、時々15、6歳のフジコさんや、ウルちゃん(フジコさんの弟ウルフ氏)も姉のピアノレッスンの際に私の家に遊びにきていました。ウルちゃんはおサルさんの真似をしたりしてとてもひょうきんでしたね。私はまだ7歳なのに、彼のまるで天使の様な美少年さに息をのみました。私は幼いながらもフジコさんのピアノの音は他の人にはない素晴らしさを感じていました。フジコさんはドイツに留学後、時々帰ってきては日本でコンサートを開催しましたが、私たち家族みんなで応援しました。まだ一部の人にしか知らされていなかったので、友人に宣伝したりチケットを売ったりしました。でもあの当時、すでにフジコさんのファンが何人もいましたよ。フジコさんは色白で鼻が高くとても綺麗で、私たちの憧れでした。結局、姉の綾乃がフジコさんの従兄(フジコさんの伯母の息子)と結婚したのです。フジコさんがロスでコンサ-トをした時、私は30年ぶりに再会、これは運命的だと思っています」
約10年前にフジコさんはサンタ・モニカの家を購入、親族でもある木之下さんご夫妻に家の管理を一任した。「それからも度々ロスでコンサ-トをするようになりました。フジコさんはかわいい夢見る少女のようで、ピアノを弾く事以外は10代の少女のままで音楽が洋服を着ているような人ですね」と、フジコさんをこよなく愛し、心底理解している人ならではの言葉であった。
後日談だが、1月下旬にフランスに帰国(筆者TOMOKOはフランス国籍)し、私はパリの空港に着いた。税関も問題なく自由になり、タクシ-かバスにでも乗ってパリに入ろうとしたのだが、2度もポリスに止められて早口のフランス語で質問された。「どこから来た、どこへ行く、現金はいくら持っているか、アルコ-ルのボトルは何本か」などと。すでに新型コロナ感染防止の準備が始まっており、その翌日から空港でのチェックが厳重になったというニュースが流れた。危機一髪という感じで空港で足止めさせられずにアメリカからフランスに入国できた。その数日後、フジコさんも異常事態の閑散としたロスの空港から日本に向けて出発、ギリギリで無事に日本に入国することができたという眞弓さんからのメールが届いた。
ロサンゼルスの中華レストランで。木之下ご夫妻、フジコさんとトモコ
着物姿の眞弓さん。サンタモニカで
木之下眞弓さん・サンタモニカの家でフジコさんの愛犬と