布から銅版へ
長い黒髪と黒衣装に白い顔でたたずんでいる不思議な印象のお嬢様に見えたが、実は現在まで山谷をいくつも乗り越え更に前進している女性であった。パリの日本人画家の展覧会で見かけていたが、お互い挨拶だけであった。今年の2月に私の関係していたパリの画廊でHiromiの個展があり、そこで彼女の生き様を知ったのだ。ファッション・デザイナーから一版多色刷り銅版画家に転向。今回はこれまでのHiromiの半分折り返しの人生をじっくり聞きだすことができた。
パリのカフェで、筆者トモコ(右)と
『小さな恋の妖精達』
『ダンサー』
ファッション・デザイナーとして渡仏
「ファッション関係の学校を卒業後、東京のデザイン事務所で10年間働きました。やっと自分の念願の仕事ができると希望に溢れていました。パタンナー、デザイン、縫製まで幅広くできたので『これでいける!』と思っていました」。
1990年にデザイナーにも幅広い国際性と語学が必要とされ、2年間のパリ・ソルボンヌ大学への語学留学とモード研修を決心し、やはりファッションの本場のパリをこの目で見ようと2年間の留学休暇を会社からもらいました」。
Hiromiはまずフランス語をみっちり学びながら、パリの空気を肌で感じ、ファッションの本場パリでファッションと語学を貪欲に学び吸収していった。しかしそれは、やがてファッション・デザイナーとしての限界を知ることでもあった。
「私はクリエーターとしてのデザイナ―を目指していたのですが、現実は年に5回の新作展示会に追われてビジネスに繋がる物作りに変わりつつ現実に流されていた。今、考えれば当たり前の事ですが企業デザイナ―とは、企業に貢献出来るコンセプトを提案してトレンドセッターとしてビジネスに繋げる物作りが仕事だと気付いたのです。小さな時から思い描いていたファッションクリエーターと、現実のギャップに、これは自分が求めていたものとは違うと落胆したのです」。しかしその一方で新たな方向性を模索するチャンスを得たのだった。
2年後、パリのアトリエでアパレルの仕事に就いたが、Hiromiは東京でファッション・デザイナーとして高レベルの仕事をして評価されていたにもかかわらず、パリでは残念ながらその力が発揮できる環境では無かった事と、国籍による考え方の違いに軋轢が生じ始め、外国人がフランスで仕事をする事の難しい壁にぶつかり、やがて仕事への意欲が失われてしまった。
『sayveur du temps・時の救世主』
『コピー ~約束のない待ち合わせ』
ウィリアム・ヘイターの版画に出会う
「服飾のアトリエで働き始めて2年後、サンジェエルマン・デプレ(パリ6区)のショーウインドーでウィリアム・ヘイター*の作品を見て全身に電撃がビリビリ走りました。私の求めていた道が見つかったのです。デザイナーとしての豊かな生活を捨ててもこの版画を制作してみたかったのです。あえて生活苦となる版画家の道を選び、今日まで続けてきました」Hiromiにとって布から銅版に材料が移っただけだが、パリでの大変な生活になることを知って家族や友人たちは驚いて日本に帰るようになどと、猛反対されたそうだ。
「ビジネスだけでは物足りないという思いを抱いていた時に出会ったウィリアム・ヘイターの版画が私に求めていた道を指示してくれたと思いました。ですから、どんな反対意見にも動じませんでした。これで後ろには戻れない、もう前に行くしかないと言う強い意志ができました。着るモードではなく見るためのモードを表現したいと思ったのです。ヘイターのアトリエに入ったのは彼が亡くなって3年目でした。ファッション・デザイナーであった私が銅版画の研究と制作に何の違和感もなく没頭できたのは、デザイナーの時に表現していた想像力と造形力は、ただマテリアルが変わっただけで、私の中では一枚の布が一枚の銅版に代わり、モードを版画で表現することが出来たと感じています」。
19世紀末のパリの古き良き時代、ロングドレスに身を包んだ優雅な女性たちと、その女性達の心の奥に潜む愁いや抱擁、祈り、力強くエネルギーなどを女性作家だからこそ引き出せる心の描写を表現している。儚く華麗なモ-ドの世界を、ヘイタ―の多色印刷技法により、光と影、透明感のあるグラデーション効果から躍動感と色彩のハ-モニーが表現されている。ヘイタ―の作品で強く惹かれた美しい色彩、中でも『遠く宇宙の彼方まで届くような、深みのある透明感』も追い求めている。
一版多色刷り制作には大変な神経を使うようだが、最も難しいと思う作業は?と尋ねると、一版多色銅版画はデッサンや下絵は描きません。頭の中にイメ-ジしたものを直接銅版に彫り上げ、途中の試し印刷でイメ-ジとかけ離れた版画になったとしても、イメ-ジに近づける駆け引きを銅版と繰り返しながら作品が出来上がります。人生においても失敗に何かプラスする事で成功に向かう事を銅版画から学んできました」サラッと言ったがこの言葉が出るまで、様々失敗と研究、受験を繰り返した経験から想像力を高め自分のものとしたことか。
ヘイタ―のプレス機で
版画工房で
レオナール・ツグハル・フジタ(藤田嗣治)の原版摺師と印刷の許可を取得した唯一の摺師
「今度は白黒の作品を作ってみたいです。それはレオナール・フジタの白黒の版画を通して触発されたのです」。Hiromiは世界で唯一フジタの版画を刷る事が許可されている公の摺師なのだ。それは2016年から現在まで続いている。
最近フジタの1951年原版制作年の作品「アトリエの自画像」をHiromiの手腕で見事に現在によみがえらせている。限定100枚をFondation Foujita/AFI/STAの合意の下に、制作工房NAKANO 163で作った。1951年に制作されたオリジナル作品と区別ができるように、画面右下に藤田のスタンプサイン・特許承認ドライシールが押印されている。この銅版画の原版は印刷後、廃版処理が施され美術館に寄付される予定。そして奇跡的に発見されたフジタの原版「エルメスの馬」が制作された当時(1951年)のままに残っており、この原版を使用して世界でわずか200部のみを刷る事の許可を得ている。
Hiromiはパリで生活して約30年間、その間たくさんの展示会を開催し、多くの賞を受賞した「版画が人生」をみごとに築いていた。1997年にはポーランドの世界的に有名なクラコフ版画ビエンナーレに入賞。山梨県生まれの彼女は主に山梨県立美術館をはじめ、東京、パリ、アメリカ、ポルトガル、イタリアなどで展示、入賞を果している。
『アーティストは美しくあるべき、だってここはパリよ。アトリエでは職人としてインクだらけの毎日だけど、せめて私の作品を見に来てくださる方々に、モ-ドと版画の世界に共鳴して夢を見てほしいから』ファッションデザイナーとしてのHiromi 163の言葉。「これからも健康で幸せに作品を作り残していきたい」と銅版画家Hiromiは言う。
『Dans silence 静けさの中で』
*一版多色刷り銅版画は、イギリス人の地層学者であったStanley William Hayter(スタンレイ・ウィリアム・ヘイター)が発案した特殊技法の版画。ヘイタ―がニュ-ヨークで開いたAterier17 の工房には、現代に名を残すピカソ、カンディンスキー、ミロ、シャガール、マット等の芸術家が集まり、ヘイターの新技術からなるアイディアの研究と作品制作を共に試し現在までそれらの作品が残っている。1972年にヘイターはパリに拠点を移し、88歳で亡くなる1988年までこのパリAtelier17で制作活動を続けた。その後ヘイターの弟子達によりAtelier Contrepointと改名し、一版多色刷り銅版画の技術は現在まで受け継がれている。